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連載・特集

緑地帯 山下一史 広島に生まれた指揮者⑧

 昨年の8月3日、東京混声合唱団の広島公演を指揮した。この日のプログラムの中心は、林光先生の「原爆小景」(原民喜の詩による)だった。

 東京混声合唱団は、1980年から毎年8月にこの曲を歌い継いでいる。僕が初めて指揮したのは2018年8月。その公演に寄せた文章の中で、初めて母が被爆者であったことを公に語った。そしてそれをなぜ封印していたかも。

 毎年8月が近づくとさまざまな媒体から取材が殺到し、幼い僕の目には、精神的にも体力的にも弱っている母親をまるで寄ってたかっていじめているように映って、そんな僕の様子を見た母が取材をお断りすることもあったようだ。

 しかし母の死後、母がテレビの取材に答えて「私が死んでも私の髪の毛は残る(母の抜け落ちた毛髪は原爆資料館に収蔵されている)。それが原爆の悲惨さを語ってくれる。しかしこの髪の毛がなくなってしまったら」と語っているのを見て、僕の中に新しい思いが芽生えた。

 文章は次のような言葉で締めくくられている。「私は音楽家です。言葉で発信するのではなく音楽に思いを乗せていくことができる。それが命を懸けて生んでくれた母の思いに応えることになると」

 楽器を介さず自分自身の声で音楽を表現する声楽の魅力は、感情がダイレクトに声に乗ることだ。当日の合唱団の演奏は今までと全く違ったものとなった。広島で、広島の聴衆の前で歌ったことは団員にとって貴重な音楽体験となっただろう。もちろん僕にとっても。こんな僕を見て母は何と言うだろうか。(指揮者=東京都)=おわり

(2023年5月17日朝刊掲載)

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