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[広島サミット5・19~21] 帰らぬわが子 眠ると信じて 原爆供養塔 身元不明遺骨「7万人」

 米軍が78年前に広島に投下した原爆で、あまたの子どもたちが命を絶たれ、遺骨すら見つかっていない。三重野杜夫(もりお)さん=当時(12)=もその一人。遺族は、「約7万人」といわれる身元不明の遺骨を納めた平和記念公園(広島市中区)の原爆供養塔に眠ると信じてきた。先進7カ国首脳会議(G7サミット)に合わせ公園に足を踏み入れる首脳たちは、わが子と引き裂かれた親の悲しみ、核兵器の被害の無差別性に向き合うか―。(編集委員・水川恭輔)

 被爆5カ月前に撮られた写真は、あどけない笑顔がまぶしい。両親から惜しみない愛情を注がれていたという。三重野さんは1945年8月6日、広島一中(現国泰寺高)の1年だった。「行ってまいります」と学校近くでの建物疎開作業の動員に出た後に原爆がさく裂し、行方不明になった。

 母松代さん(82年死去)が郊外の自宅から捜しに入った。「杜夫、あなたは今どこにゐ(い)る」「火を潜っても貴方(あなた)に逢(あ)ひ度(た)い一心」(当時の日記)。校舎は倒壊して燃え尽き、すでに息のない同じ年格好の子どもに一人ずつ近寄ると、顔つきが分からないほど痛ましいやけどを負っていた。

 「貴方(あなた)に申訳(もうしわけ)なくて、胸を八裂(やつざき)にされるやうです」「かんにんして、許して、頑張ってゐて」(日記)。松代さんは、見つけ出せない自分を責めながら、再会を諦めずに焦土でわが子を捜し歩いた。9月21日、半紙に「三重野杜夫」と書いて燃やし、葬儀とした。

 「家族で、杜夫は供養塔にいると信じることにしてきました。どこでどう亡くなったのかは、今も分かりません」。姉の茶本裕里さん(93)=東京=は無念さをにじませる。今の原爆供養塔は、55年に建立。被爆で街が瞬く間に壊滅する未曽有の混乱の中、身元も確かめられないまま各地でまとめて火葬、埋葬されていた多くの遺骨が安置されている。

 茶本さんは「杜夫だけではありません。それがたくさんの犠牲者の実態なんです」。家族に別れを告げることも、みとられることもなかった一人一人の死を首脳たちに想像してほしいと願う。

(2023年5月17日朝刊掲載)

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