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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説主幹 岩崎誠 原爆資料館とサミット

2万点にこもる思い 直視を

 ことし開館68年。原爆資料館、正式には広島平和記念資料館が、国際政治の舞台として注目を集める。あす広島市で開幕する先進7カ国首脳会議(G7サミット)と拡大会合に集う指導者たちが訪れるからだ。

 首脳たちは国重要文化財でもある本館の常設展示を視察する方向と聞く。空襲に備えた建物疎開作業などに学校単位で動員され、閃光(せんこう)を浴びた少年少女をはじめ、直爆による死者が着ていた服や弁当箱といった遺品。原爆の猛威を物語る石や瓦…。約300点の実物資料を中心に構成され、直前まで外国人観光客や修学旅行生であふれんばかりだった。

 米国、英国、フランス、拡大会合のインド。四つの核保有国の首脳が訪れる予定だが、日本側とデリケートな交渉があったことは想像に難くない。核兵器の非人道性を告発する資料館だけに自国の核戦略との兼ね合いから、本音ではあまり行きたくなかった国があるかもしれない。

 だからこそ通常の見学が実現すること自体が前進だろう。7年前に広島入りしたオバマ米大統領の場合は資料館に入ったがロビーに特別に並べたごく一部を見るにとどまり、残念な思いがした。今回は一秒でも多く時間を取り、足を止め、目をそらすことなく見つめてほしい。

 同時に資料館が果たす役割に思いをはせてもらえればと願う。東館地下の収蔵庫には2万点以上の実物資料があり、その数は増え続ける。きりのたんすに被爆した衣服類を入れるなど大切に守られている。寄贈を受けるたび、学芸員たちがつぶさに話を聞いてデータベース化した由来を画像とともに知ることもできる。原爆で平穏な暮らしを奪われ、戦後を生き抜く中で資料を託した人たちの思いが、館全体にこもる。

 記者生活を振り返ると、遺族が大事にしていた被爆資料を記事で掘り起こし、寄贈に至ったものが幾つかある。首脳たちが訪問する宮島(廿日市市)ゆかりの遺品もその一つ。旧制崇徳中3年の木島和雄さんが、形見に残した定期入れである。

 あの朝は宮島の家から動員先に向かう途中、爆心地から約1・7キロの横川駅で倒壊した駅舎の下敷きになる。助けようとした駅前派出所の警察官に宮島の家族に届けてほしいと定期入れを渡し、炎に包まれたという。取り乱すことなく「ありがとうございました」の言葉を残して。

 「横川―宮島」と印字された定期券を入れたまま、姉が仏壇の中にしまってきた。被爆59年の夏に「弟の物語が分からなくなる前に」と資料館に託した。

 焼けただれ、ぼろぼろになった資料ほど痕跡はなくとも、悲劇を静かに伝えてくれる「無言の証人」は数え切れない。例えば焼け跡で遺骨代わりにと拾ったがれきがあり、防空壕(ごう)で破損を免れ、復興した店で長く使ってきた一輪挿しなどがある。

 こうした資料収集の始まりは初代館長で地質学者だった故長岡省吾さんの行動にさかのぼる。被爆翌日、市内の神社の石灯籠に腰を下ろすと痛くて跳び上がった。石の表面が一瞬の高熱で溶け、無数のとげができていたからだ。それを機に石や瓦などを拾い集めたことが後に資料館の礎となる。やがてわが子を失った動員学徒の親たちが遺品を寄せ始め、歳月とともに寄贈者は兄弟姉妹、さらには子や孫の世代に移った。遺族に代わって記憶を未来へ継承する役割を資料館は担っているのだ。

 2019年に終わった3度目の大規模な展示刷新を、館長として指揮した志賀賢治さんは実物資料の活用を何より重んじた。著書「広島平和記念資料館は問いかける」では資料館の使命を「ヒロシマの死者を記憶するための施設」と説く。「もの」とともに記録された死者の記憶を伝え続け、死者と対話し、無念を聞くことを可能にする場を提供する、と。

 訪れる首脳たちが展示とどう向き合うか。政治的な配慮から館内での具体的な行動は内外のメディアに伏せられるかもしれない。少なくとも特別な空間に足を踏み入れる重みは体で感じ取ってほしいと思う。

(2023年5月18日朝刊掲載)

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