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連載・特集

広島サミットあす開幕 やまぬ核実験 被爆地の怒り 広島市抗議文 68年以降614回

 世界各地で2千回以上繰り返されてきた核実験は核兵器の開発や増強につながり、ヒバクシャを生んだ。広島市は1968年以降、核実験への抗議文を614回送り、うち先進7カ国首脳会議(G7サミット)に参加する米英仏が6割強の計384回を占める。核開発競争は人類の破滅につながり、核抑止政策からの脱却が不可欠―。被爆地は警鐘を鳴らし続けてきた。(編集委員・水川恭輔)

米英仏宛て6割強 「人類破滅」 警鐘続ける

 広島市は1968年、南太平洋の仏領ポリネシアで水爆実験をしたフランスに最初の抗議文を送った。「原爆の惨禍は今なお被爆者の健康を冒し、生命を奪いつつある事実を認識されたい。貴国の実験は、国際的核競争をあおり、その結果は人類の全面的破滅をもたらす」。山田節男市長(以下、肩書は当時)と浅尾義光市議会議長の連名でドゴール大統領に宛てた文面は、怒りに満ちている。

 米軍が広島、長崎へ原爆を投下後、冷戦下で各国の核開発競争がエスカレート。ソ連は49年、英国は52年に初の核実験をした。被曝(ひばく)による健康被害や環境破壊への批判が広がる中、米ソ英は63年に大気圏内や海中での核実験を禁止する部分的核実験禁止条約(PTBT)に調印した。

 ただ、核開発で米ソ英に後れを取っていたフランスは条約に参加せず、南太平洋で核実験を継続。広島の被爆者や市民たちが怒りの声を上げる中、市も呼応して抗議文を送り始めた。フランスのほかに、中国もPTBTに参加せず核実験を続け、74年にはインドが初の核実験をした。

 さらに、PTBT加盟国で核保有国に核軍縮義務を課す核拡散防止条約(NPT、70年発効)も批准した米ソ英も地下核実験を続けた。75年に就任した荒木武市長は、核抑止政策からの脱却を説いている。「『核抑止力』に依存する時代はすでに過ぎ去り、核実験を停止して核軍拡競争に終止符を打つことが人類生存のための勇気ある決断」(83年の英国への抗議文)

 89年に米ソ首脳が冷戦終結を宣言。96年、核軍縮・不拡散のため核爆発を伴うあらゆる核実験を禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)が国連で採択された。だが、フランスは採択の前に駆け込み的に核実験を繰り返し、平岡敬市長は「人類への背信行為」と抗議した。

 その後もパキスタンが98年に初の核実験をし、2006年に北朝鮮も続いた。CTBTは発効要件国の米中などが未批准のため、今も発効していない。

 米国では09年に「核兵器なき世界」を掲げたオバマ政権が発足したが、核爆発を伴わない臨界前核実験を継続。秋葉忠利市長は10年の抗議文で「CTBTの精神に反する」と訴え、オバマ大統領に被爆地を訪れて被爆の実態に触れるよう求めた。

 17年には、実験を含めて核兵器に関する行為を全面的に違法化する核兵器禁止条約が国連で採択されたが、やはり保有国は背を向けている。直近では22年4月、臨界前核実験をした米国のバイデン大統領に宛てて松井一実市長が抗議文を送り、「核兵器廃絶を求める多くの人々の願いに背く行為」と批判した。

米英仏 安保理由に正当化 返信で核抑止力主張 廃絶の意志見えず

 広島市によると、核実験への抗議に対する返信は、米国(抗議247回)から18回、英国(同19回)から6回、フランス(同118回)から1回あった。過去の新聞記事や市の記録で内容をたどると、安全保障を理由に実験を正当化する主張が目立つ。

 フランスから市への唯一の返信は、1回目の抗議から9年後の1977年、29回目の抗議に対してだ。75年開始のサミットを提唱したジスカールデスタン大統領の在任時。駐日大使名の書簡で、核兵器について「それなしには自主的に自国を防衛することが不可能な兵器」と強調した。

 2006年に臨界前核実験をした英国は返信で「核兵器を大量保有する他国の存在」を挙げ、核抑止力の必要性を説いた。この時に共同で実験した米国も「核抑止力を維持するため」と返してきた。

 さらに、米バイデン政権発足後、21年2月に駐日臨時代理大使名で届いた臨界前核実験への抗議の返書には「日米両国は独自の緊密な協力関係を享受している」と記されていた。核実験の是非に直接言及していないが、日本への拡大核抑止(核の傘)提供を理由に正当化しているともとれる内容だった。

 「核兵器の開発・保有・実験も非核保有国にとっては、強烈な威嚇であり、国際法に反する」。95年、当時の平岡敬市長は核兵器の使用・威嚇の違法性を審理していた国際司法裁判所で訴えた。核実験や核保有それ自体が、やめるべき「核の脅し」―。被爆地の訴えを受け止め、率先して核兵器をなくす意志は返信からうかがえない。

芳名録に学ぶ 核廃絶の道筋

ヨハネ・パウロ2世/マザー・テレサ/オバマ氏…

原爆資料館で記した思いは

 先進7カ国首脳会議(G7サミット)の各国首脳が視察を予定する原爆資料館(広島市中区)には、ローマ教皇やオバマ米大統領(当時)たち多くの著名人が訪れている。原爆の惨禍を伝える遺品や写真を目の当たりにし、どんな思いを巡らせたのか。「芳名録」に記されたメッセージから核兵器廃絶へのヒントを探りたい。(余村泰樹)

 国家元首たち要人がメッセージを寄せる芳名録の最初のページは、1981年2月のローマ教皇の故ヨハネ・パウロ2世の言葉で始まる。「『私の思いは平和の思いであって、苦痛の思いではない』と神は言われる」(写真①)。絶句しながら資料に向き合った教皇は、旧約聖書の一節をラテン語でしたためた。

 貧しい人々の救済に尽くした故マザー・テレサ氏は84年11月、被爆資料の一つ一つに手を合わせた。「神が私たち一人一人を愛するようにお互いに愛し合いましょう。ヒロシマに多大な苦痛をもたらした恐るべき罪悪が二度と起こらないようにするために」(写真②)との言葉を残した。

 世界的指揮者の故レナード・バーンスタイン氏は85年8月にあった原爆の日のコンサート前日に訪れた。 「すでに言葉だけが多過ぎる―行動が不足しているのに!」(写真③)。記帳からは反核運動に積極的だった姿勢がにじむ。

 東西冷戦を終結に導いた故ミハイル・ゴルバチョフ氏は、ソ連の大統領退任後の92年4月に来館。 「歳月がヒロシマの悲劇の痛みを和らげることはできませんでした。このことは決して繰り返してはなりません」(写真④)と記した。

 バラク・オバマ氏は2016年5月、現職の米大統領として初めて被爆地に立った。 「私たちは戦争の苦しみを経験しました。共に、平和を広め核兵器のない世界を追求する勇気を持ちましょう」(写真⑤)。メッセージには自ら作った2羽の折り鶴を添えた。

(2023年5月18日朝刊掲載)

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