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広島サミットあす開幕 「地獄生む核 怖さ知って」 ハワイ出身被爆者 荒井さん

放射線被害を強く訴え

 「日本へも米国へも愛国心がある」と、被爆者の荒井覺(さとる)さん(88)=広島市南区=は言う。米ハワイ生まれの日系3世。日米開戦前に広島へ移り、米軍が投下した原爆に顔や体を焼かれた。19日に始まる先進7カ国首脳会議(G7サミット)で、米国の現職大統領が再び被爆地を訪れる。荒井さんは一つの願いを胸に見守る。「どの国の指導者も核の本当の恐ろしさを知り、廃絶へ動いてほしい」(編集委員・田中美千子)

 原爆資料館(中区)の外国人被爆者コーナーに、米国製の小さな白地のシャツが並ぶ。墨で書かれていた胸元の名前は熱線で焼き抜かれている。ピースボランティアでもある荒井さんは館内を案内する時、こう紹介してきた。「あの日、私が着ていたんです」

 荒井さんのミドルネームはアーネスト。父母、姉と共に4歳の時に日本へ渡った。後に生まれた弟と祖母を加え、6人で出汐町(現南区)に暮らしていた。

 被爆時は大河国民学校(現大河小)5年生。祖母と一緒に爆心地から約1・7キロ南東の路上にいた。薪にしようと、解体された家屋の廃材を拾っていた最中、爆風に飛ばされた。気づいた時は「地獄に来たんだと思った」。

 暗闇の中、逃げ惑う人々の足音が聞こえた。祖母とはぐれながらも自宅にたどり着くと、母が「覺、どうしたんか」。知らぬ間に左の顔、首、腕と右手脚をひどく焼かれたらしく、すぐ激痛が襲ってきた。一家6人は生き延びたが、祖母も重傷で、痛みに耐える日々が続いた。妊娠7カ月だった母は男児を死産した。

 戦後、父は職を求めて再び米国へ。荒井さんも21歳で追いかけた。庭師として働いて資金をため、ロサンゼルス郊外で車の修理業を営むように。2児を育て上げた。「実力主義で、頑張れば報われる国。米国が私を一人前にしてくれた」

 ただ辛酸もなめた。ケロイドを目にし、気の毒がる人ばかりではない。「どの国が始めた戦争か」と真珠湾攻撃を持ち出されたことも。「『原爆は市民を巻き込む。胎児まで殺したんだ』と言い返したが、核の怖さは理解されなくて」。1970年代に在米被爆者団体の役員として米政府に援護を求めた際は、議員から「彼らは敵だった。面倒をみる必要があるのか」とはねつけられた。

 荒井さんは「国同士の過ちを巡り、市民が言い争うのはむなしい」と憂う。ついのすみかに選んだ広島に戻り、被爆体験を伝えようと、2007年にピースボランティアになった。

 バイデン米大統領をはじめG7首脳には、とりわけ放射線被害を知ってほしいと望む。被爆後、病気がちになった母は61歳で他界。荒井さんは、わが子への影響にも不安を抱いてきた。「放射線は多くの人を後々まで傷つける。首脳たちは広島の被害実態を胸に刻み、全廃に動いてもらいたい。どの国も絶対に発射ボタンを押してはならない」

(2023年5月18日朝刊掲載)

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