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G7首脳が訪れる平和記念公園 爆心直下 平和を誓って

 広島市で19日に始まる先進7カ国首脳会議(G7サミット)で、各国首脳が訪れる平和記念公園(中区)。緑豊かな公園の緑地や石畳の下には、米軍が投下した原爆の爆心直下で壊滅した旧中島地区の遺構が眠る。公園を巡る首脳の「足元」に、一発で街も命も消し去った原爆の悲惨な実態がある。家族を奪われた人たちは切に願う。単に訪れるだけではなく、決して繰り返さないための行動につなげてほしいと。

浜井徳三さん

礎になった人 眠る街

 廿日市市の浜井徳三さん(88)は「中島は今も心のよりどころです」と言う。生家の理髪店があった旧中島本町は、爆心地から200メートル。家族4人が犠牲になった。「平和の礎になった人たちが眠る街。首脳たちはご存じだろうか」

 1945年、浜井さんは小学5年生だった。父二郎さん=当時(46)、母イトヨさん=同(35)、姉弘子さん=同(14)、兄玉三さん=同(12)=の5人家族。4月、末っ子の浜井さんだけが郊外の叔父方に疎開することになり「行くのは嫌だと泣きました」。8月5日、両親と姉が会いに来てくれたのが最後の別れとなった。

 8日、自ら確かめたわが家はがれきと化し、その前日に叔父が拾ってきた遺品だけが残った。陶製の壁時計は、今も原爆資料館(中区)に並ぶ。骨片もあったが、「誰のものだか…。私はいまだに家族が死んだと納得できとらんのです」。

 戦後は叔父に養われ、父と同じ理容師になった。体験を語り出したのは、息子2人を育て上げ、60歳を過ぎてから。口を開けば「悪ガキ」時代の思い出があふれる。元安川で釣り人のさおに石を投げて𠮟られたこと、お使いに行った店のにぎわい…。古里への思慕が募り、毎週のように散歩に通うようになった。

 ただ体調を崩し、昨夏から控えていた。「どうにも行きたい」とサミット前に訪れ、「物々しいが、やはり中島は心が落ち着く。この地で平和を誓うなら行動に移してもらわんといけません」。サミット後の首脳の言動も見つめる。(編集委員・田中美千子)

木村正恵さん

一番の犠牲者は子ども

 「すぐそばの誓願寺に遊びに行き、池のコイに餌をやったのを覚えています。境内で紙芝居も見ましたねえ」。木村正恵さん(84)=広島市安佐南区=の家族が被爆前に営んでいた理髪店は、旧材木町98番地にあった。今は原爆資料館本館が立つ場所の一角だった。

 父は召集を受け、1944年に戦死。母の広本敏枝さん=当時(27)=は6歳だった木村さんを郊外の実家に疎開させ、妹和子さん=同(2)=を育てながら店を切り盛りしていた。45年8月5日には母と妹も実家に集い、夕食をともにした。

 翌朝、敏枝さんが和子さんを乳母車に乗せて店に戻った後、原爆がさく裂。材木町は焼き尽くされ、灰じんに帰した。2日後、木村さんは、店の焼け跡に捜しに入った母方の祖父たちからブリキの箱の中を見せられた。母、妹と、店で一緒に働いていた父方の祖父の3人の遺骨が入っていた。

 木村さんは母の最期に思いをはせると、胸が張り裂けそうになる。「妹の体は焼け切ってはいなくて、兵隊さんに焼いてもらったそうです。火が迫る中、母が身をていしてわが子を守ろうとしたのだと思います」

 首脳には、家族の命が奪われた場所に立つ資料館で多くの遺品や被爆者の体験に時間をかけて触れてほしいという。「戦争はあってはならない。一番犠牲になるのは、子どもです」。訪問を糧に、子どもたちが平和に暮らせる核兵器も戦争もない世界の実現へ力を尽くすよう、期待している。(編集委員・水川恭輔)

(2023年5月19日朝刊掲載)

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