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連載・特集

NO NUKES NO WAR 非核へ 刻んだ言葉 強い思い

 人生を賭して、核兵器の非人道性を告発した広島、長崎の被爆者や平和活動家たちがいる。その言葉は、核使用を食い止め、核軍縮を後押しする力になってきた。死してなお、世界中の市民の心を揺さぶる。(編集委員・田中美千子)

原水爆の被害者は私を最後にしてほしい

久保山愛吉さん(1954年に40歳で死去)

 静岡県のマグロ漁船第五福竜丸の無線長。54年3月1日に操業中、米国が中部太平洋マーシャル諸島ビキニ環礁で実施した水爆実験の「死の灰」を浴びた。半年後に入院先で亡くなると、原水爆禁止を訴える声が全国に広まり、被団協の結成につながった。

核と人類は共存できない。人類は生きねばならぬ

森滝市郎さん(1994年に92歳で死去)

 広島県被団協の初代理事長を務めた。原爆の爆風で右目を失明。「核絶対否定」を唱え、核実験のたびに、平和記念公園(広島市中区)の原爆慰霊碑前で抗議の座り込みを重ねた。その回数は約500回に上る。日本被団協の理事長や原水禁国民会議の議長も担った。広島大名誉教授で、専門は倫理学。

ノーモア・ヒロシマ、ノーモア・ナガサキ、ノーモア・ウォー、ノーモア・ヒバクシャ

山口仙二さん(2013年に82歳で死去)

 日本被団協代表委員。1982年に渡米し、国連軍縮特別総会で被爆者として初めて演説した。長崎原爆に焼かれた自身の写真を掲げながら「私の顔や手をよく見てください」と呼びかけ、最後は畳みかけるように「ノーモア」を訴えた。

ちちをかえせ ははをかえせ
としよりをかえせ
こどもをかえせ

わたしをかえせ わたしにつながる
にんげんをかえせ

にんげんの にんげんのよのあるかぎり
くずれぬへいわを
へいわをかえせ

峠三吉さん(1953年に36歳で死去)

 広島で被爆した詩人。戦後の占領下、厳しい言論統制にあらがって原爆の非人道性を発信した。51年9月、ガリ版刷りの「原爆詩集」を発行。ここに紹介した「序」を含め、全20編を収録した。52年に占領が解けた後、さらに5編を加えた文庫本が出版された。平和記念公園には「序」を刻んだ詩碑もある。

まどうてくれ(元に戻してくれ、償ってくれ)

藤居平一さん(1996年に80歳で死去)

 日本被団協の初代事務局長。自らは被爆者ではないが、原爆に父と妹を奪われた。民生委員を務めながら広島市民の戦後の窮状に触れ、草創期から被爆者運動をけん引。命や健康、財産を元通りに―との意味を込めた広島弁が口癖だった。

被爆者という人間はいない。私たちは、被爆者という運命を背負わされたのです

岩佐幹三さん(2020年に91歳で死去)

 広島で被爆し、猛火が迫る中で自宅の下敷きになった母と泣きながら別れ、妹も失った。石川県に被爆者団体を設立した後、日本被団協の運動もけん引し、代表委員を務めた。被爆者の証言や運動の記録の収集にも尽力。英国思想史を研究した金沢大名誉教授でもある。

私もまた被爆者です I,too,am a hibakusha

バーバラ・レイノルズさん(1990年に74歳で死去)

 米国人平和運動家。51~69年、広島市に暮らし、被爆者の思いに寄り添いながら反核平和運動に取り組んだ。62、64年には「平和巡礼」として欧米の核兵器保有国などを被爆者と訪れ、原爆被害の実態を伝えた。広島市特別名誉市民。

平和は祈りさえすれば得られるのでなく、行動で勝ち取っていくものだ

国は原爆で死んだ人に線香の一本でもいいから供え、悪かったと言ってほしい

伊藤サカエさん(2000年に88歳で死去)

 広島県被団協の結成に参画し、国家補償に基づく被爆者援護法を実現するために奔走した。日本被団協代表委員。県被団協の2代目理事長でもある。広島で被爆した自らの体験を証言するため、海外にも赴いた。

ネバーギブアップ。核兵器廃絶を死ぬまで諦めない

坪井直さん(2021年に96歳で死去)

 日本被団協代表委員で、広島県被団協の4代目理事長。広島市の中学校教員を定年後、被爆者運動に尽くした。16年に現職の米大統領として初めてオバマ氏が広島市を訪れた際、その手を握りながら「核兵器をゼロにするため、共に頑張りましょう」と語りかけた。

■被団協

 1956年5月、全国に先駆け、広島県原爆被害者団体協議会(県被団協)が発足。8月には、全国組織の日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)が続いた。その結成大会宣言「世界への挨拶(あいさつ)」は、こううたう。「私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意を誓い合ったのであります」

 その言葉通り、日本被団協は核兵器廃絶を人類の問題と捉え、粘り強い運動を続けてきた。70年代から被爆者の海外派遣を本格化。国連や核兵器保有国で「世界のどこにも二度とヒバクシャをつくるな」と力の限りに訴えてきた。ただ老いにはあらがえず、近年は都道府県組織の解散が相次ぐ。

 「今日の聞き手は明日の語り手」。そう語ったのは、長野県原爆被害者の会会長を務めた前座良明さん(2009年に88歳で死去)。広島で被爆後、移り住んだ松本市で、食堂「ピカドン」を営みながら記憶の継承に努めた。この精神を引き継ぎ、被爆2世たちが被団協の運動をつなぐケースも増えている。

(2023年5月19日朝刊掲載)

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