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ヒロシマ壊滅 その時 知事は 高野源進氏の書簡見つかる 

 原爆で壊滅時の広島県知事、高野源進氏(1895~1969年)が着任した1945年6月から離任した10月にかけ、したためた書簡4通が見つかった。防空業務に当たり、被爆による未曽有の混乱に陥った行政トップの心情を赤裸々につづっている。内務省の先輩でもあった池田清大阪府知事(当時)に宛てていた。研究者らは「原爆前後の動向を知る一級の資料」と評価し、広島県立文書館が書簡の収蔵手続きをした。(「伝えるヒロシマ」取材班)

 現在の福島県会津若松市出身の高野氏は、大阪府次長から45年6月10日、官選の広島県知事に就いた。

 1通目は6月20日付。「当地は地域狭小河川多く殆(ほと)んど全部木造建築にて火災発生せば如何(いかん)とも致難(いたしがた)き状況にて唯(ただ)心のみあせり居(お)り候(そうろう)」と、米軍による空襲への備えを急ぐ務めを強調していた。

 続く7月21日付では、「広島市のみはさしたる被害も蒙(こうむ)らず、却(かえ)って気味悪き様」「果(はた)して間に合ふや否(いな)や不明なるも目下大々的に建物の疎開を実施中に有之候」と、防火地帯を設ける建物疎開作業を本格化させていることを伝えていた。

 しかし、8月6日の原爆投下で水主(かこ)町(現中区加古町)にあった県庁をはじめ行政機能も壊滅した。

 高野知事は出張先の福山市から戻った翌7日、焼け残った広島東警察署(同銀山町)に臨時県庁を置き、負傷者の救護や缶詰20万人分の食糧放出を指揮する。

 被爆後の書簡は9月7日に記し、東洋工業(現マツダ)に移った県庁から翌8日に送っていた。

 敗戦の無念さと日本の再建への誓いを述べた後で、「当県庁員にて既に死亡せるもの六百六名尚(なお)相当数の死者を出すことと存じ居り候」と惨状を伝え、「防空の如(ごと)きは如何ともすべからざる次第」「科学の研究こそ将来戦争の勝負を決する唯一無二の戦方かと存ぜられ候」と、心境を率直につづっていた。妻しな子さん=当時(40)=を原爆で失っていたが、書簡では全く触れていない。

 高野氏は10月11日警視総監に任命されたが、翌年1月に連合国軍総司令部(GHQ)の公職追放令を受け辞任。弁護士となり、急性肺炎のため東京都練馬区の自宅で73歳で死去した。

 神奈川県鎌倉市に住む長男源明(もとあき)さん(87)は「父は広島県知事時代のことは意識して語らず、書き残したものもない。書簡は歴史的な文書であり、広島で保存・活用していただければ、ありがたい」と話している。

 書簡を宛てられた、池田氏が66年に死去した後は関係者が残し、元広島県史編さん室職員を経て今回、現存が分かった。

第一級の資料 被爆史を刻む

 書簡を調べた元広島県立文書館副館長、安藤福平さん(65)の話 学徒も動員した民防空の責任者でもあった知事としての思いや、原爆と敗戦に直面した為政者の考えが率直に表されている。一級の資料といって過言ではない。中国地方を統括する中国地方総監府の大塚惟精総監や広島市の粟屋仙吉市長が原爆死し、高野知事が終戦直後も対策を指揮したが、忘れられた存在となっている。書簡を多くの人に見てもらい、広島の歴史に触れてほしい。

(2014年3月17日朝刊掲載)

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