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連載・特集

[モノ語り文化遺産] 乙女峠マリア聖堂 浦上信徒 津和野で苦難

ヒロシマとも深いつながり

 鎖国下の江戸期に続き、明治期になってもキリスト教信徒への厳しい弾圧は続いた。その歴史を伝えるのが、島根県津和野町の「乙女峠マリア聖堂」だ。長崎・浦上地区から送られてきた信徒がこの地で受けた、過酷な仕打ちを語り続ける。その建造を巡っては、ヒロシマとも深いつながりがある。(山田祐)

 JR津和野駅から徒歩で約20分、細い山道の先に、広場が開ける。旧光琳寺跡地だ。その一角に立つマリア聖堂は木造平屋約25平方メートル。瓦屋根から尖塔(せんとう)が伸び、十字架を頂く。旧光琳寺に浦上の信徒が収容された日々から約80年後、1951年に建てられた。

 聖堂の古い木戸を開けて中に入ると、両壁にある8枚のステンドグラスに目を奪われる。「守山甚三郎、高木仙右衛門ほか同志氷責め」「安太郎三尺牢(ろう)(1辺約90センチの立方体の木製おり)で聖母マリアのまぼろしをみる」…。素朴な絵柄が拷問の異様さを際立たせる。

 和洋折衷の独特な趣をまとった聖堂。島根大の千代章一郎教授(建築史)は「切り妻屋根の和の要素に加え、柱の列からは西洋の教会建築の影響も見いだせる。地域の特性を上手に取り入れており、造り手の熱意を感じさせる」と評価する。

 江戸末期の1867年に始まった浦上の信徒に対する弾圧は「浦上四番崩れ」と呼ばれる。神道の国教化を進めるため、江戸期からの禁教を受け継いだ明治新政府も弾圧を続けた。中国地方のカトリック教会を管轄する広島司教区の資料などによると、70年までに約3400人が全国22カ所に送られ、拷問などで棄教を迫られた。全体で約660人が亡くなったとされる。

 津和野藩に送られたのは、小規模な藩としては異例の多さの153人。藩主だった亀井茲監(これみ)が新政府の要職に就き、宗教政策を担っていたことから、キリシタンの改宗を積極的に引き受けたと考えられている。153人の中には、浦上の信徒のリーダー格だった高木仙右衛門も含まれていた。

 長い人で5年もの過酷な日々。氷責めや三尺牢への閉じ込めのほか、食べ物を与えない、親の前で子どもを痛めつけるなど残酷な拷問を受けた。幼子を含む37人が犠牲になった。

 マリア聖堂は、約800メートル南東にあるカトリック津和野教会のパウロ・ネーベル神父が建てた。ネーベル神父はドイツ出身で1929年に来日。46年に津和野に赴任するまで広島市の長束修練院(現長束修道院)にいた。そこで原爆に遭遇し、避難者らの食糧調達に奔走したと伝わる。聖堂の設計は、同じく長束にいた信徒で大工だったという稲村重清さん(2006年に97歳で死去)に託した。

 津和野教会の現在の主任司祭山根敏身さん(78)は「信徒たちの歴史を記録し、大切に伝えるのはキリスト教の伝統」とした上で、「戦後の難しい時期に聖堂の建築まで成し遂げたのは頭が下がる」と思いをはせる。被爆の惨状を目の当たりにしたネーベル神父が、不条理な弾圧で命を落とした人々に強い共感を覚えたのは想像に難くない。

 犠牲者をしのび毎年5月3日に開かれる「乙女峠まつり」。ネーベル神父が1952年に始めた。カトリック津和野教会を出発し、マリア聖堂まで行進する。今年は全国から約千人が訪れ、思いを一つにした。

 聖堂は現在、史跡などには指定されておらず、維持・管理はカトリック津和野教会が担っている。千代教授は「木造建築はメンテナンスが極めて重要。将来にわたる維持には自治体の支援も必要」と指摘する。まつりに出席した下森博之町長は「信念を守り抜いた人たちの歴史を守り継いでいけるよう、協力していきたい」と話した。

遠藤周作らが小説の題材に

 乙女峠の出来事は、大佛次郎や遠藤周作ら、作家たちが相次いでモチーフに取り上げている。

 大佛がライフワークとした歴史小説「天皇の世紀」。「武家支配で(中略)浦上の農民がひとり『人間』の権威を自覚し、迫害に対しても決して妥協も譲歩も示さない―」などと、浦上の信徒をたたえた。

 江戸初期のキリシタン弾圧を描いた「沈黙」で知られる遠藤も、津和野に流された人たちを手厚く描いている。1982年刊行の「女の一生 一部・キクの場合」だ。

 主人公キクが思いを寄せる青年が、津和野藩に流されて拷問を受ける。切ない結末が、残酷な迫害を浮き立たせる。

 いずれの作品も、重要人物として浦上の信徒のリーダーだった高木仙右衛門が登場する。上智大グリーフケア研究所名誉所長でシスターの高木慶子さん(86)=神戸市=は、仙右衛門のひ孫に当たり、遠藤の創作に協力もしている。「歴史の重みを肌で感じられる聖堂の存在は、とても尊い」と話している。

(2023年5月26日朝刊掲載)

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