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伝えていく 隔離の歴史 ハンセン病 長島愛生園 「人間回復の橋」35年

 ハンセン病回復者の暮らす瀬戸内市の長島と本州の間の狭い海峡に邑久(おく)長島大橋が架かって35年がたった。「人間回復の橋」と呼ばれるこの橋は、国の隔離政策に翻弄(ほんろう)された療養所入所者と島外の人との交流を生んだ。今は年間8千人が島に渡る一方、入所者の高齢化で体験の継承が危ぶまれる。入所者の経験を学び、心に刻み、伝えようとする若い世代の試みを見た。(山本真帆)

盈進中高ヒューマンライツ部

生の声 手からぬくもり

 国立ハンセン病療養所の長島愛生園(瀬戸内市)の入所者と25年にわたり交流を続ける学校がある。福山市の盈進中・高。ヒューマンライツ部の生徒は年3回、長島を訪れる。聞いた話を文化祭やシンポジウムで発表し「差別や偏見を繰り返さないで」という入所者の願いを伝える。今月初旬には、高校2年池田和音さん(16)と大島弓依さん(16)が邑久長島大橋を渡った。

 「橋が架かった時、どんな気持ちでしたか」。2人は、19歳の時に入所した神谷文義さん(94)に話を聞いた。海を指さす神谷さん。「橋のアーチが運ばれてくるのが見えた時は感動したな。みんなで工事を見守ったんよ」と当時の興奮をよみがえらせ、声を震わせた。

 橋の建設は、隔離政策やいわれのない偏見からの脱却の第一歩だった。池田さんは「神谷さんの表情から『人間回復』にかけた情熱を感じました。生の声を聞くことが難しくなっているので、私たちがちゃんと思いを伝えたい」と決意を新たにする。

 同校の生徒が初めて来園したのは、らい予防法廃止の翌年の1997年。古里を追われ家族と離れ、苦悩の中で生きる意味を見いだす入所者の姿と言葉から学んできた。断種や堕胎を強いられた事実も。生徒がまとめた証言集は2冊になり、若者向けに作ったガイドマップは長島で使われている。

 ヒューマンライツ部の部訓は「手と手から」。今回、愛生園を訪れた2人も神谷さんと手を握り合って別れた。大島さんは「いつも温かい、その人柄に引かれるからここにまた来たくなるんです」。握った手のぬくもりの伝わる体験の継承を誓う。

歴史館の田村さん

「語り部」高齢化 継承の形を模索

 長島には、ハンセン病患者が上陸した桟橋や消毒風呂、監房跡などが残る。こうした遺構が使われた隔離政策の歴史や入所者の生活を伝える中心施設が長島愛生園歴史館だ。入所者の高齢化で「語り部」の活動が細る中、主任学芸員の田村朋久さん(46)は新たな継承の形を模索する。

 1988年5月の橋の開通時、近くの邑久光明園と合わせて約1400人いた入所者はことし4月末、計157人に減り、平均年齢は88歳を超えた。約20人いた語り部も2人になり、講話も月2回が精いっぱい。田村さんは、自らも語り部の役割を担うようになった。

 入所者の半生を紹介するスライドを使い、暮らしの中で聞いた一人一人の言葉を紡ぎ直す。「入所者がここで築いた暮らしや文化にもゆっくりと思いを寄せてほしいんです」

 歴史館はことし8月、開館20年。島内ガイドやクルーズツアーが人気で、修学旅行先に選ばれるケースも増えた。田村さんは「少しでも長く滞在して、隔離の歴史を深く感じてほしい」と望んでいる。

喫茶さざなみハウス

きっかけの場に

 カフェの名は「喫茶さざなみハウス」。瀬戸内海を望む大きな窓から日光を取り込んだ店内は家族連れや若者でにぎわっていた。岡山県産の野菜を使ったランチや手作りのデザートを囲み、ゆったりとした時間が流れている。

 青い壁がよく映えるカフェは2019年7月にオープン。眺めの良さやおしゃれなメニューが評判で多い日には50人ほどが訪れる。店主の鑓屋(やりや)翔子さん(34)は「この場所が島を訪れるきっかけになってほしいんです」とほほ笑む。

 おおむね午前8時~午後4時に開店(月、火曜日は定休日)。入所者が「ようこそ」と出迎えて会話が始まることもしばしば。優しい雰囲気に包まれれば、島のことを知りたくなる。「どこを見学したらいいですか」と聞く人も増えた。鑓屋さんは「ありのままの島の営みを感じに来てみませんか」と呼びかける。

(2023年5月26日朝刊掲載)

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