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連載・特集

フィルムは生きている 広島市映像文化ライブラリー40年 <下> 川崎と連携 被災ネガ修復

点在する資料 未来へつなげ

 映像や漫画、写真を軸にした複合型アーカイブとして1988年開館した川崎市市民ミュージアム。優れた記録映像や独立プロ映画の発掘、収集、上映に力を入れてきた。

 2019年10月、台風19号がミュージアムを襲い、九つの地下収蔵庫が全て浸水。収蔵品の9割近い約23万点が被災した中、最初に修復された映画が尾道市出身の森弘太監督(84)の「河 あの裏切りが重く」(67年)だった。

 劇映画にドキュメンタリーを重ね、被爆20年後の広島で川沿いに残るバラックを捉える。平和大通りや原爆慰霊碑が登場しないのは「復興計画」への違和感が拭えない被爆者たちの心情を踏まえた。

 ミュージアムは01年に上映用フィルムを購入。06年、森監督から上映用の基となったオリジナル・ネガ(原版)の寄贈を受けた。広島市では09年、有志の映画祭で初めて公開された。市映像文化ライブラリー(中区)も13年に上映用フィルムを収蔵した。

 修復は、川崎と広島の上映用フィルムを使ってデジタル上で欠損部分を補い、再びフィルムに焼き込む「フィルムレコーディング」で行った。地方アーカイブの連携が広島の歴史を語る映画を救った。

 川崎の村岡由佳子学芸員(31)は「原版を頂いた映画を復元させるのは私たちの使命」と言う。川崎市民の関心も高く、22年9月の上映会は満席だった。森監督は「収蔵するだけでなく、未来の観客にも新しい作品として鑑賞してもらいたい」と願う。

 復興初期の記録映画には、連合国軍総司令部(GHQ)占領期の48、49年を撮った秋元憲監督「平和記念都市ひろしま」がある。県や市が製作しながら所在不明になっていた。監督の遺族が06年、当時の可燃性フィルムを川崎に寄贈。広島市では被爆70年の15年、初めて上映された。川崎が所蔵する上映用フィルムは地下収蔵庫の棚上部、保管方法が異なる可燃性フィルムは外部倉庫にあり無事だった。

 ライブラリーが3年後に移転するJR広島駅南口のエールエールA館。9階に収蔵庫、10階に上映ホールを計画する。35ミリフィルム用映写機2台、16ミリ用2台を移設し、デジタル上映に対応するデジタル・シネマ・パッケージ(DCP)を導入。席数は169から約100にする。

 市は駅前移転で国内外の観光客を含む集客増を見込みながら、ビデオやDVD、レコードを個人視聴できるブースは廃止する方針。再生機器を個別に貸し、自習室や多目的スペースで鑑賞してもらうというが、不便さは否めない。

 広島ゆかりの映像に関する資料はライブラリー以外にも点在する。市公文書館(中区)は新藤兼人監督から託されたシナリオや日記、ポスターを所蔵。81年に寄贈された92点は目録があるが、08年の企画展で使った写真データなど約100点は整理中だ。

 被爆者の証言ビデオなどを館内上映する原爆資料館(同)には、米国戦略爆撃調査団が46年の広島を撮ったカラーフィルムなどがある。02年設立の広島フィルム・コミッション(同)は撮影を支援した作品のシナリオやポスターを収集する。しかし、こうした組織を横断するデータベースはなく、外部の利用者への発信も十分とはいえない。

 NPO法人映画保存協会(東京)の石原香絵代表(49)は、今回の移転を機に体制の充実と国際フィルムアーカイブ連盟(FIAF)への加盟を提案する。「収蔵作品に光が当たり、鑑賞される機会が増えるだろう」とみている。

 ヒロシマを巡る記録と記憶を焼き付けたフィルムは「証言者」として生き続ける。世界に発信し、次世代へ手渡すためには、市民の関心と支えが欠かせない。(渡辺敬子)

地域巻き込み活性化を

神戸市外国語大准教授 山本昭宏さん(39)=メディア文化史

 神戸市のNPO法人が運営する「神戸映画資料館」の取り組みは参考になる。研究者や愛好家と調査プロジェクトを組んだり、資料整理のボランティアを受け入れたりしている。地域の「ハブ」になろうと工夫を重ね、集まった人々の熱意が活動を支えている。さまざまなコミュニティーと対話し、巻き込みながら活性化していくのが理想だ。

 時代が変われば、映画の受け止められ方や評価も変わる。「河」が撮られた1960年代に共有された原爆に対する社会認識や政治状況は、現在とは隔たりがある。過去の映画作品を、今の視点や想像力で鑑賞すると見誤る。違和感はあって当たり前。理解しようとするのはいいが、理解し切ったと思ってはいけない。

 シナリオと映像の比較から、削除されたシーンが分かる。撮影現場の写真から当時の技術やスタッフが分かる。こうした資料抜きで映画研究は成り立たない。未来の人が利用するため整備するのがアーカイブだ。

 新藤兼人監督のバイタリティーはすさまじい。原爆や反戦のテーマにしっかり向き合った思想家と、面白いシナリオを大量に書き上げた職業脚本家が同居する。彼のフィルムと資料がある広島はうらやましい。

 奈良で生まれ育った僕は、漫画「はだしのゲン」で知ったヒロシマを広島への修学旅行であらためて確認するような体験をした。リニューアルされた原爆資料館を訪れる人が増えているのは喜ばしい。ただ、いきなり見学した人がどれだけ実感を伴って展示と向き合えるかは気がかりだ。

 映画は巨大な感情移入装置といえる。漫画や小説とともにヒロシマを知る最初の一歩になり得る。図書館や公文書館、フィルム・コミッションと連携すれば、広島ならではの新しいアーカイブが生まれるだろう。

新藤兼人資料
 広島市公文書館が所蔵する1946年以降の映画シナリオ、ポスター、チラシ、写真データなど。広島ロケの「原爆の子」(52年)の記念写真集やパンフレット、200字詰め用紙に鉛筆で記した「竹山ひとり旅」(77年)のシナリオ原稿、撮影中の出来事をつづった日記もある。市映像文化ライブラリーの収蔵フィルムのうち新藤監督が47本で最多。

(2023年5月27日朝刊掲載)

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