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中隊長が撮った戦時下 日中戦争従軍 そして被爆死 祖父のアルバム 「被害と加害 二分できず」

孫の得津広経大教授 学生に語りかけ

 広島市が拠点の旧日本陸軍歩兵11連隊の中隊長として日中戦争に参加し、36歳の時、原爆で亡くなった男性のアルバムが見つかった。学生時代に打ち込んだ陸上競技や、将校として転戦した中国やベトナムの写真が収まる。広島が軍都だった時代を生き、被爆死した男性の写真を前に、孫で広島経済大教授の得津康義さん(50)=西区=は「戦争は、被害と加害を単純に二分できないもの」との思いを強くする。(衣川圭)

 男性の名は得津政夫さん。1908年に生まれ、広島市楠木町で育った。38年5月、宇品港から戦地に赴き、41年10月まで中国や当時のフランス領インドシナ北部(北部仏印・現ベトナム)を転々とした。自ら撮ったとみられる写真には、北部仏印進駐(40年9月)の時に部隊が突入した国境の兵営や占領都市での軍の行進のほか、現地の景色や住民の暮らしぶりも写る。

 約200枚を収めた2冊のアルバムは、政夫さんの妻である祖母(2008年に95歳で死去)の遺品から見つかった。広島大名誉教授の勝部真人さん(日本近代史)は「一般の人が残した戦時中の多くの記録が失われる中、従軍記者でなく中隊長が自らの関心事にレンズを向けた写真が残っているのは貴重」と評価する。

 写真は学生時代に政夫さんが出場した陸上大会や、陸軍の幹部候補生として参加した福山城(福山市)での演習の一こまもある。得津さんは「学生に続く入営の写真。戦争が生活のすぐ隣にあった時代だったんですよね」と言う。

 政夫さんはマラリアに感染し戦地から戻った。その2カ月後の41年12月8日、太平洋戦争が始まった。歩兵11連隊は米ハワイの真珠湾攻撃の約1時間前のマレー上陸作戦に参加。南方戦線で苛烈な戦いを強いられた。現地の人々も戦渦に巻き込んだ。「祖父がそのまま隊に残っていたら、殺りくにつながる命令をする側になっていたかもしれません」。得津さんは複雑な気持ちを打ち明ける。

 45年8月6日、爆心地近くで建物疎開作業に従事していたとみられる政夫さんは、3日後に亡くなった。原爆は広島一中(現国泰寺高)の1年生でやはり建物疎開の作業に出た政夫さんの長男の命も奪った。

 あの日、時間が止まった祖父と伯父の写真は若いまま。得津さんは、祖母が晩年、つぶやいた言葉を思い出す。「(あの世で)私のこと分かるのかな」。幼くして肉親を失った父も、得津さんと親子げんかをした時に「父親像が分からない」と漏らした。戦争は残った家族にも長く影を落とした。

 きなくささを増す国際情勢。得津さんは学生たちに政夫さんの経験を語り始めた。「若い人にも日本が太平洋戦争に向かった時代のことを考えてほしい」と願う。

(2023年5月30日朝刊掲載)

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