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連載・特集

緑地帯 新田玲子 私のアメリカ文学研究④

 ユダヤ教は確かに、「古い民族宗教」である。しかし「古い=悪い」「民族=偏狭」では決してない。

 たとえばモーセの十戒は極めて端的な教えだが、その大半は否定形で書かれている。肯定形の命令であれば指示されたことだけを従順に実践すれば事足りる。だが否定形の命令は、無限大に広がる可能性から、何が最善か、常に自ら考え判断してゆく自主的思考を促し、思考力を発展させる。

 十戒にはまた、偶像崇拝の禁止と安息日の聖別も含まれる。これにより、ユダヤ人は1週に1日は必ず、全知全能の神についてさまざまな思いを巡らさざるをえなくなり、このこともまた、彼らの思考力を発達させたといわれる。

 十戒の最後、「盗んではならない。隣人について偽証してはならない。隣人の家をむさぼってはならない」も、人として守るべき道徳律以上の役目を担う。というのもこれらの戒めは、異邦人として異国に暮らさざるをえないユダヤ人が、文化や習慣が異なる人々と平和共存することの重要性を強く意識させるからである。

 このように十戒ひとつにも、異教徒の支配下で生き延びるための知恵や、能力の育成が仕組まれている。だがもっとも肝要なことは、成文化された「聖書」を持つことで、ユダヤ人は誰もが皆、文字を扱えるようになったことだ。しかもヘブライ文字は数字機能を兼ね備えていた。その結果、ほとんどが非識字者の時代に、彼らは物事を記録し、参照し、計算まで行えるようになり、商売をはじめ、さまざまな分野で活躍する知的基盤を獲得したのである。(広島大名誉教授=長野県)

(2023年5月30日朝刊掲載)

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