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連載・特集

緑地帯 新田玲子 私のアメリカ文学研究⑥

 「屋根の上のバイオリン弾き」が成功した最大の要因は、原作であるアライハムの、牛乳屋テヴィエを主人公とした物語を貫く、人間味あふれるたくましい生きざまだといわれる。

 テヴィエは日々の生活に追われながらも、日がな一日神に語りかけている。貧しい生活では「聖書」を深く学ぶこともできず、彼の「聖書」解釈は欠点だらけだ。にもかかわらず彼は常に、親として、人として、もっとも良い結論に至る。そこには無知の、知に対する勝利が標榜(ひょうぼう)されている。

 作中には他にも、弱者のユダヤ人が知恵で強者のロシア人を笑いものにするなど、ユーモアあふれる逆転の発想もそこかしこにうかがえる。そしてこの柔軟で人情味豊かな発想の転換もまた、「聖書」がもたらした、ユダヤ人特有の精神的枠組みのひとつだった。

 ユダヤ人に限らず、人は皆、多かれ少なかれ困難を抱え、差別や格差に苦しめられている。そして時には、抱える問題がとてつもなく深刻で耐えがたく見えることもある。だが、家を焼かれ、故郷を追われ、命まで奪われる運命に翻弄(ほんろう)され続けてきたユダヤ人が、逆境にあってなお、小さな笑いを引き出しながら生き延びてきたことを考えれば、新たな勇気が湧いてくるのではなかろうか。

 私自身、かつては男の砦(とりで)と呼ばれた国立大学で女性研究者として研究教育に携わるなか、何度となく不条理な差別や嫌がらせを被ってきた。それでも常に前を向いて研究教育を続けられたのは、こうしたユダヤの知恵に助けられたところが大きいと思う。(広島大名誉教授=長野県)

(2023年6月1日朝刊掲載)

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