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砲弾?大崎上島で発見 神社から金属 日露戦争の記念品か

 大崎上島町の神社敷地から砲弾の一部とみられる金属が見つかった。専門家は明治期に旧陸軍が製造した28センチ榴弾(りゅうだん)砲の砲弾と指摘。日露戦争(1904~05年)の戦勝記念に配られ、奉納されていた可能性があるという。(渡部公揮)

 金属はさびて先から半分程度がなかった。長さ約37~43センチ、直径約28センチ。中は空洞だが重さ約70~80キロと推測される。町史編さん委員会メンバーの平本幸三さん(77)たちが3月、天満鼻金刀比羅宮(ことひらぐう)(木江)の敷地内を調べた際、金属の一部が地表に出ているのを見つけ、掘り起こした。

 平本さんが地元住民から、80年ほど前に社殿そばの台座に砲弾らしきものがあるのを見たとの話を聞いた。近くの木江厳島神社には、明治40年代に同戦争の激戦地である中国・旅順から送られた砲弾をまつったとする台座が存在し、平本さんは「金刀比羅宮にも同じ時期に砲弾が奉納されたと考えてもおかしくはない」と指摘する。

 軍事技術史研究家の佐山二郎さん(75)によると、金属は28センチ榴弾砲の「堅鉄(けんてつ)弾」の一部とみられる。明治以降に主に国内の海岸に配備され、同戦争では旅順要塞(ようさい)の攻略に用いられたことでも知られる。砲弾の帯の形状から、不発弾だった可能性があるという。

 旧陸軍は戦後、戦勝記念として戦利品や国産の砲弾などを全国の神社仏閣などに配ったとされる。東広島市内の神社には現在も「日露戦役記念」と刻まれた砲弾のようなものがある。佐山さんは同町で見つかった砲弾も同様の経緯で奉納された可能性があるとし「戦没者を慰霊する意味もあった」と説明する。

 しかし、なぜ地中にあったのか。町教委職員の秋山英雄さん(60)は、太平洋戦争後に進駐軍が島にも来るとのうわさがあったことを挙げて「砲弾の存在が戦意高揚と受け取られ、処罰されるのを心配して隠したのではないか」とみる。

 平本さんは「当時の戦勝に沸く雰囲気がこの小さな島にもあったことが分かった。町史で触れたい」と話した。金属は警察に相談した上で、危険性はないとして大崎郷土資料館(中野)の敷地内に保管している。

(2023年6月4日朝刊掲載)

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