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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <1> 米騒動まで 大戦景気 諸物価が高騰

 立憲政友会を率いる原敬(たかし)は大正7(1918)年9月に首相となり、初の本格的な政党内閣が生まれた。政党嫌いの元老山県有朋が自身の推挙に同意した訳を、原は「米騒動だな。官僚内閣の無力なことがよくのみ込めたのだ」と語ったという。

 支配層に大きな衝撃を与えた米騒動は、同年7月下旬の富山県魚津町(現魚津市)での主婦たちによる井戸端会議に端を発し、全国に波及した。米価高騰や売り惜しみを不満とする民衆エネルギーの爆発だった。

 前兆はあった。不況と増税で生活苦に陥った人々が数年前から声を上げていた。例えば、軍港都市の呉では大正2(13)年、電灯料金の引き下げ運動が起きる。市民有志の団体が二、三千人規模の演説会を繰り返し開いて電力会社に圧力をかけ、最大2割の値下げを実現させた。

 日露戦争後にわが国は広大な植民地帝国となるが、巨額外債を抱えながらの軍備拡張や植民地維持で台所は火の車だった。後発の「一等国」が背伸びした末の行き詰まりを打開したのが、大正3(14)年からの第1次世界大戦である。

 戦場になった欧州諸国の穴を埋める形で輸出が急増する。戦時景気は資本家に空前の繁栄をもたらし、成り金が続々と生まれた。一方で国内の諸物価は、物資不足もあって4年間で2倍強に高騰した。

 主食の場合は死活問題となる。1升15銭程度だった広島県内の米価は大正6(17)年秋に25銭前後に騰貴。芸備日日新聞は大正7年3月、「家族枕を並べて野たれ死にするほかない」と、7人家族を養う月給取りの悲痛な手紙を載せた。

 県当局は売り惜しみと買い占め禁止を求めたが効き目なし。米穀集散地の双三郡三次町・十日市町(現三次市)は3年前に芸備線で広島と結ばれ、米穀商の投機的な動きが活発化していた。大正7年8月に入ると1升40銭を突破し、売り惜しみも目立ち始めた。同月9日には「朝から町内の各小売店を買い歩いても一升の米も売らぬ」との事態になる。

 この日夜、三次町の寺院、照林坊の釣り鐘が乱打された。「飯が食えない」と憤る2千人余が境内を埋めた。広島県における米騒動の口火が切られた。(山城滋特別編集委員)

 第1次世界大戦中の物価高騰 大正3年の物価指数100に対し4年103、5年144、6年179、7年230と上昇。米価は遅れて6年後半から値上がりが目立ち、シベリア出兵宣言が出た7年8月から暴騰した。

(2023年6月6日朝刊掲載)

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