×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <2> 米騒動拡大 群衆殺到 鎮圧で死傷者も

 うごめく群衆の写真2枚が大正7(1918)年8月12日の中国新聞に載っている。広島県双三郡三次町・十日市町(現三次市)で3日前から続く米騒動のカットである。

 群衆は米穀商に殺到して米価値下げを迫り、次に三次駅へ。広島向けの白米150俵余を貨車から降ろさせて三次からの搬出を止めた。米価については、警察署長と郡長の仲介により1升35銭と決めた。

 三次の騒動を知って広島市でも11日夜、群衆が米穀店に押し寄せた。1升30銭、25銭と下げさせ、ついに1升20銭の廉売で折り合った。

 新聞号外で広島情報が伝わった三次で13日夜、群衆が街中消灯を発電所に強要して暴徒と化す。米穀商や富豪、町議宅を襲って家財を打ち壊し、「一升十七銭」の張り紙でやっと鎮まった。警察は応援到着を待って翌朝から320人を検挙した。

 騒動は全県下へ燃え広がる。米価問題の野外市民大会が禁止された呉市では13~14日夜、怒れる群衆が一時は3万人規模に膨らんだ。知事の要請で出動した海軍陸戦隊と市街戦さながらに衝突し、銃剣で刺された群衆側に死傷者が出た。

 群衆の攻撃対象は米穀商から富豪へと広がり、県内で672戸が襲われた。官憲や軍隊による鎮圧への反発も騒動の激化を招き、検挙者は1796人に及んだ。当局は地域の在郷軍人会や青年団を動員したが、要請に応じて集合後に制服を脱ぎ捨てて騒ぎに加わる者もいた。

 大戦景気は諸物価の高騰を招き、貧富の格差が社会問題となる。京都帝大教授の河上肇(岩国出身)が大正6(17)年に著した「貧乏物語」はベストセラーに。暴動発展の背景には、民衆の心中に鬱積(うっせき)した有産階級や地主への不満があった。

 東京帝大教授の吉野作造は天皇主権と併存可能な「民本主義」を説き、普通選挙制度と政党政治の実現を目指す大正デモクラシーの一大思潮となった。国際的にも民主主義の時代を告げる第1次世界大戦の終結直前に起きたのが米騒動だった。

 長州閥の寺内正毅(まさたけ)内閣は、騒動が収束した大正7年9月に総辞職する。自然発生的な運動は一過性であっても、国家を揺さぶりかねない民衆の力を誇示した。(山城滋)

米騒動
 大正7年7月下旬~9月中旬に全国300カ所以上で起き、軍隊の出動も70カ所。宇部では炭鉱の労働争議と連動した暴動に発展し、13人が軍隊に射殺された。呉では銃剣で刺された3人(4人とも)が死亡したという。

(2023年6月7日朝刊掲載)

年別アーカイブ