×

連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <3> 米騒動余波 政治参加求めて普選運動

 大正7(1918)年夏の米騒動後、民衆パワーは政治参加を求め普通選挙(普選)運動に向かう。25歳以上男子で納税額10円以上の有権者は人口の3%弱の地主や富裕層。東京帝大教授の吉野作造は「民本主義」実現へ普選断行を唱えた。

 広島市や呉市でも大正8(19)年2月以降、弁護士や新聞記者たちが普選演説会を開く。呉では電灯代引き下げ運動や米価高騰問題に取り組んだ市民有志が普選運動を率い、海軍工廠(こうしょう)の労働者が合流した。

 普選は労組の大目標にもなる。同年10月設立の呉労働組合は「国民の大多数が生活不安を危惧するのは参政権がないため」とし、労働や生活面での問題解決を普選に求めた。工廠職工が大半の穏健派組合だった。

 国内の普選運動は翌大正9(20)年2月初めに最高潮を迎え、先行導入の英国やドイツに続けと5万人集会を東京で開催。それに呼応して呉労働組合も同月11日、国会示威活動のため上京する工廠若手職工らを演説会と市中行進で送り出した。

 工廠の圧迫に対し、「解雇されるぐらいの犠牲はなんら苦痛を感じない」という組合員の意気込みを中国新聞記事が伝えている。

 一方、立憲政友会の原敬(たかし)内閣は前年に有権者の納税資格を3円以上に引き下げ、普選に反対していた。野党の憲政会、国民党の普選法案が衆院に上程された同年2月末、原は議会解散で応じた。

 同年5月の総選挙で政友会が圧勝し、普選運動は尻すぼみとなる。呉労働組合も工廠側の言いがかりによる解雇攻勢で消滅した。

 言論界にも余波が及ぶ。米騒動の記事掲載を禁じた寺内正毅(まさたけ)内閣を弾劾する関西新聞通信社大会が大正7年8月25日にあった。それを報じた大阪朝日新聞の記事中に「白虹(はっこう)日を貫けり」と兵乱前兆を意味する語句があるのを政府は問題視。新聞紙法違反の朝憲紊乱(ちょうけんびんらん)で発行禁止に持ちこもうとした。

 不買運動が起き、右翼の壮士たちが同新聞社の村山龍平(りょうへい)社長を白昼に襲撃した。吉野作造は暴力による言論圧迫を批判する論文を発表する。右翼団体の浪人会が抗議してきたため、吉野は立会演説会で公開対決することにした。(山城滋)

 白虹事件その後 村山社長が大正7年10月に退陣、鳥居素川(そせん)、長谷川如是閑(にょぜかん)ら進歩派が退社。同紙は、天壌無窮の皇基守護や不偏不党をうたう編集綱領を発表。大正デモクラシーを先導した大新聞が政府に屈服した筆禍事件とされる。

(2023年6月8日朝刊掲載)

年別アーカイブ