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社説・コラム

[歩く 聞く 考える] 論説主幹 岩崎誠 土呂久公害と毒ガス

ヒ素から見える工業技術の影

 「土呂久(とろく)」。神話の里、宮崎県高千穂町にある山深い集落の名前は、別の意味で知られる。1920年からヒ素化合物である亜ヒ酸の生産に伴い、住民の健康がむしばまれた鉱毒公害の舞台である。73年に慢性ヒ素中毒症として公害病認定され、ことし50年になる。

 先週、とある会議で宮崎市を訪れた折、宮崎大に立ち寄った。3年前に「土呂久歴史民俗資料室」ができたと聞いたからだ。この鉱毒や世界のヒ素汚染を追う旧知の記録作家で同大客員教授の川原一之さん(76)らが集めた膨大な資料を公開する。

 「今は宮崎県や大学の環境教育の場として土呂久の役割は大きい」。資料室で会った川原さんは朝日新聞記者時代にこの問題を取材し、職を辞して被害の調査や救済、そして語り継ぐ活動に力を注いできた。

 生き方としても尊敬に値する記者の先輩と縁ができたのは戦後50年の夏だった。旧陸軍の毒ガス製造拠点だった大久野島(竹原市)と土呂久の知られざる関わりからだ。土呂久の亜ヒ酸が、大久野島で化学兵器の原料に使われていた―。重い事実を毒ガスの島の歴史をたどる取材の旅で川原さんに教わった。そして土呂久を訪れた記憶は忘れ難い。

 猛毒のヒ素は自然界に広く存在する。土呂久では掘り出した鉱石を石窯で焼き、亜ヒ酸の白い粉を取り出したという。有害物質は煙となり、川に流れていく。窯から100メートルほどの屋敷では一家7人が全滅し、その跡が草に覆われていた。

 土呂久の亜ヒ酸生産のピークは大久野島でヒ素化合物を原料にした化学兵器「あか一号」や「きい二号」の製造が本格化した時期と重なる。慢性気管支炎や皮膚への色素沈着といった土呂久の鉱毒患者たちの症状も、大久野島の毒ガス工場の元従業員たちと共通していた。「たいがいの人は毒ガスに使うと知っていた」と川原さんは改めて思い返す。

 宮崎大付属図書館に、彼が学生たちと手がけた土呂久公害の常設展示がある。亜ヒ酸を採った後の「焼きがら」など実物資料とともに「亜ヒ酸は毒ガスの原料に使われた」と、はっきり記すのが目を引いた。

 土呂久で公害病認定されたのは計216人、生存者はこの3月時点で41人。証言できる人はもういない。だがヒ素がどう送り出され、化学兵器製造に取り込まれ、戦争に使われたのか。その流れをもっと解明できないかと思う。工業技術が軍事・戦争と一体化した時の影の部分を直視し、未来への警鐘とするために。

 戦時下で土呂久の鉱山を運営したのは軍用機を造った軍需企業の系列会社だった。飛行機の製造に欠かせないスズを採掘する副産物である亜ヒ酸を生産した。それ以前は専ら米国の綿花向けの農薬だったが、軍需ビジネスに活用したとみられる。

 ヒ素が動いたルートは断片的な情報で分析するしかないが、川原さんによると直接、土呂久から大久野島に亜ヒ酸を運んだというより「シモリン」と呼ばれる中間製品などとして九州や大阪の大手の化学工場を経たと考えられるという。大久野島で使われたヒ素は土呂久由来だけではない。日本の工業界を挙げて毒ガス製造に協力したのかもしれない。

 その化学兵器を日本軍は中国大陸に大量に持ち込んだ。とりわけヒ素入りの「あか一号」は盛んに使用され、土壌を汚染したことが想像される。砲弾などの形で残ったものは化学兵器禁止条約に基づいて日本政府が処理責任を負うが、使った後のヒ素はろくに調査もされていない。

 元素であるヒ素はなくならない。考えてみれば猛毒のヒ素をありったけ掘り出し、異常な使い方をしたのだから、さまざまに影響が残るのは当たり前だろう。ヒ素の流れを追うことで自然界の物質を人間がねじ曲げた事実が鮮明になってくる。

 現代の工業界では、ヒ素はなくてはならないという。弱毒性の化合物「ガリウムヒ素」の半導体として高速通信用の材料などに広く使われるからだ。やはり科学技術は世のため、人のためでありたい。土呂久の歴史を改めて学び、しみじみ思う。

(2023年6月8日朝刊掲載)

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