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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <4> 新人会 激動の時代 走り始める若者

 国民新聞を創刊した徳富蘇峰は、大正の青年を「金持ち三代目の若旦那のようなもの」と評した。

 東京帝国大生の赤松克麿(かつまろ)は大正7(1918)年12月、日本の学生運動の原点ともいうべき東大新人会を仲間と創設した。デモクラシー時代の先頭を走る彼も、明治維新世代から数えて3代目である。

 生家は徳山(現周南市)の浄土真宗徳応寺。祖父の連城(れんじょう)は維新期、廃仏運動の嵐の中で宗門改革を主導して本願寺派の要職を担う。

 連城の長女安子と結婚した父の照幢(しょうどう)は宗門での栄達に背を向ける。女学校を創設し、実弟の与謝野鉄幹を一時期、教員に招いた。夫婦で孤児保育に打ち込み、実子7人は孤児たちと寝食を共にして育つ。

 照幢は明治38(05)年、社会主義伝道行商で寺を訪れた山口孤剣と小田頼造を大歓迎し、「仏教でも耶蘇(やそ)教でも社会主義を加味せざる宗教は将来存在が出来ぬ」と語る。後に被差別部落の人々の支援に尽力した。

 四男克麿は父の影響を強く受けた。徳山中4年の時に学校側と衝突して退校処分となる。卒業検定試験に合格して京都の三高、東京帝大法科へ。弁論部に入り、部長である吉野作造教授の指導を受けた。

 吉野は「白虹(はっこう)事件」による大阪朝日新聞への不穏な攻撃を言論自由への圧迫と批判し、右翼団体の浪人会代表と大正7年11月に公開対決した。克麿らが「吉野先生を守れ」と呼びかけ東京・神田の立会演説会場は学生多数で埋まる。「民本主義」「非暴力」を理路整然と説く吉野が浪人会側を圧倒した。

 「勝利」の興奮が冷めやらない約2週間後に東大新人会が生まれた。弁論部やキリスト教青年会など吉野を取り巻く学生たちの集合体となる進歩的な思想団体だった。

 克麿が起草した新人会綱領に「吾徒(わがと)は世界の文化的大勢たる人類解放の新気運に協調し之(これ)が促進に努む」「吾徒は現代日本の合理的改造運動に従ふ」とある。エリートの気負いがのぞく文面から明確な思想や主義はまだ読み取れない。

 この年夏の米騒動で民衆運動が台頭し、秋の第1次世界大戦終結で民主主義機運が空前の盛り上がりを見せていた。激動の時代に突き動かされるように若者たちは走り始める。機関誌発刊や労働者との交流による改造運動に踏み出した。(山城滋)

赤松克麿
 1894~1955年。日本労働総同盟に参加、第1次日本共産党に加わり離党。右派無産政党の社会民衆党に転じ、大政翼賛会の初代企画部長。妻は吉野教授の次女明子。妹の常子、弟の五百麿(いほまろ)も労働運動に参加。

(2023年6月10日朝刊掲載)

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