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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <5> 改造運動 機関誌 朝鮮の学生に連帯

 東大新人会を赤松克麿(かつまろ)と創設した宮崎竜介の父は、中国革命に身を投じたアジア主義者の滔天(とうてん)である。

 会発足翌年の大正8(1919)年春、滔天の世話により会員たちは元中国人革命家の邸宅で共同生活を始めた。改造運動の第一歩は機関誌「デモクラシイ」の発行だった。

 第1次世界大戦中に帝政を倒したロシア革命やドイツ革命のしぶきを受け、国内でも労働争議が頻発。新人会は「人民の中へ」を志す。

 宮崎はこの年2月の普選デモに参加後、東京・亀戸のセルロイド工場の若手労働者と出会った縁で新人会の分会を工場に設けた。学生の会員たちは「新人セルロイド工組合」の結成を支援し、ストライキ闘争の勝利に感極まる。金属工場が密集する月島の労働者との交流も深めた。

 最高学府の大学生に労働者たちは好意的で、ナッパ服の労働者の話は学生たちに新鮮だった。「善意の投合だけが、未熟と幼稚さを前進的エネルギーに転化した」と機関誌編集に携わった林要(かなめ)。赤松と徳山中の同期で、後に大学教員となる。

 大戦終結で民族自決主義が唱道されたのを契機に大正8年3月、朝鮮で三・一独立運動が勃発した。日本の植民地統治への怒りを爆発させた朝鮮の学生たちに、新人会は同年4月の「デモクラシイ」第2号の巻頭言で連帯の意を表した。

 自国の利益のための他国支配を「断じて不可」とし、三・一運動の弾圧を「非人道の極(きわみ)」と非難する内容。赤松が執筆し、この号は発禁処分となる。新人会はそれでも官憲監視下の朝鮮人学生を会員に迎えた。

 同じ年5月、中国で抗日・反帝国主義の五・四運動が起きた。山東半島の旧ドイツ権益を巡る日本の要求が講和会議で認められたことが引き金となる。新人会は運動を主導した北京大の学生たちと交流し、吉野作造教授の協力を得て同大学生団の訪日を実現させた。

 新人会員たちは、世界の動きに呼応してデモクラシーが叫ばれた大正時代の申し子だった。思想界の激変に伴い改造運動は人道主義から社会主義へと先鋭化し、官憲の干渉も強まる。機関誌は「先駆」「同胞」「ナロオド」と改題して大正11(22)年まで発行した。(山城滋)

新人会その後
 大正11年ごろから東大学内で組織を拡大。各地の高校の社会科学研究会も束ねて全国学生運動の中心に。昭和4年の解散まで労働運動などと連携した。一方、早稲田大が拠点の建設者同盟は農民解放運動に傾斜した。

(2023年6月13日朝刊掲載)

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