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証言 記憶を受け継ぐ

『記憶を受け継ぐ』 永井温子さん―原爆 体も心もむしばむ

永井温子(ながいはるこ)さん(95)=広島市中区

急性症状と続く不調 長年語ることできず

 17歳(さい)で被爆した永井温子さんは、あの日の地獄(じごく)絵図のような光景や、急性症状(しょうじょう)と戦後の体調不良の苦しみを思い出すのがつらく、体験を語ってきませんでした。しかし95歳の今、核兵器や戦争の恐(おそ)ろしさを言い残したいという思いを強めています。

 1945年3月、県立広島第一高等女学校(現皆実(みなみ)高)を卒業しました。父が早くに病死し、当時は義父と母、7歳と5歳の弟の5人家族でした。

 8月6日の朝は、東千田町(現中区)の自宅(じたく)にいました。突然(とつぜん)、庭に青い閃光(せんこう)が見えたかと思うと体が浮(う)き上がり、床(ゆか)にたたきつけられました。爆心地から約1・6キロ。ほどなく意識を取り戻(もど)し、倒(たお)れた棚(たな)の下敷(したじ)きになった母と弟2人を助け出しました。

 誰(だれ)も大けがをしませんでしたが、永井さんが着ていたワンピースは、黒い水玉模様(もよう)の部分だけ全てに穴(あな)が開いていました。「この一瞬(いっしゅん)の熱と光が、広島を壊滅させたのです」

 4人で近くの広島赤十字病院(現広島赤十字・原爆病院)に行き、血を出していた下の弟の頭に赤チンを塗(ぬ)ってもらいました。その後は御幸(みゆき)橋へ逃(に)げました。道中には両腕(りょううで)を前に出して歩く人たちが大勢いました。皮膚(ひふ)がひものように垂(た)れ下がり、全身真っ赤。目玉は白く「だるまのよう」。御幸橋では、水を求める人たちが川に飛(と)び込(こ)み、溺(おぼ)れ死んでいきました。

 その後、救援(きゅうえん)トラックに乗りました。宇品(うじな)港(現広島港)に運ばれ、そこから船に乗り換(か)えましたがどの島に着いたのか覚えていません。講堂のような場所で、重傷者が次々と息を引き取っていきます。ひどいやけどの被災(ひさい)者は多く、捜(さが)しに来た家族も顔の判別ができないほどでした。

 食事は竹筒(たけづつ)に入ったわずかなおかゆだけ。弟たちはおなかをすかせています。食べ物を求め、近くの民家を訪(たず)ねました。家の人は「お帰りください」と一言。「見知らぬ人間がぼろぼろの服で玄関(げんかん)先に現れて、恐ろしかったのでしょう」。心細かった当時を思い出すと今も涙(なみだ)が出ます。

 3日ほど後、建物疎開(そかい)作業に出ていた義父が迎(むか)えに来ました。自宅(じたく)に戻ると、家は跡形(あとかた)もありません。戦後は焼け跡にバラック(小屋)を建てたり、郊外(こうがい)に住む親戚(しんせき)を頼(たよ)ったりしました。

 忘(わす)れられないのは、白島(現中区)の親戚宅の焼け跡を片付(かたづ)けていた日のことです。食器を手で掘(ほ)り出す作業の途中(とちゅう)、血便と血尿(けつにょう)が出て、髪(かみ)の毛が抜(ぬ)け落ちました。「熱も出てね。その時は被爆のせいだと知らなかった」。戦後はいつも体がだるく、心身とも原因不明の不調に苦しみました。23歳の時、自ら命を絶とうとしました。「原爆は体も心もむしばむのです」

 29歳で結婚(けっこん)し、夫の転勤(てんきん)で福山市へ。必死で生きる中で、徐々(じょじょ)に前を向くようになっていきました。裁判(さいばん)所の調停委員やラジオパーソナリティーとして活動を続けました。ただ、つらい記憶(きおく)を明かそうとはしませんでした。自らの被爆が娘(むすめ)や孫に影響(えいきょう)しないか、心配を抱(かか)えてきました。

 「語りたい」との思いが芽生えたのは90歳近くになってから。7年前、古里での証言活動を決意し、広島に戻りました。体調を崩(くず)して結局断念しましたが、意志は変わっていません。

 最近は世界のニュースから目が離(はな)せません。「核戦争が起こるのではないか、と毎日が不安」です。「核兵器が再び使われるかどうかは、若(わか)い人たちの肩(かた)にかかっています」とジュニアライターに語りかけます。(湯浅梨奈)

私たち10代の感想

目に見えない被害ある

 永井さんによると、被爆後には同級生の性格や行動に変化があったり、自分の心も乱(みだ)れたりしたそうです。身近な人が亡(な)くなることはつらいですが、体の病気とともに心もむしばまれる苦しさがあると知りました。永井さんは「それこそが『原爆症(しょう)』だと思う」と言います。原爆被害(ひがい)は目に見えないところにも及(およ)ぶのです。(中2川鍋岳)

関心集まる今こそ発信

 永井さんが被爆(ひばく)したのは今の私(わたし)と同じ年齢(ねんれい)です。就職(しゅうしょく)や進学といった希望にあふれていた世代で、被爆の影響(えいきょう)は大きかったはずです。「政治家だけに頼らずみんなで政治について考えて」という言葉を聞き、家族や友達と積極的に話そうと思いました。広島でサミットが開かれて関心が高まっている今こそ、発信したいです。(高3山広隼暉)

(2023年6月13日朝刊掲載)

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