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社説・コラム

『想』 小田芳生(おだよしお) 丸木スマと私の思い出

 「おばあちゃん画家」と称された丸木スマは私の祖母だ。1872年に生まれ、安佐町飯室(現広島市安佐北区)の丸木金助へ嫁いだ。15歳の時から1人で五反の田んぼを耕し、糸を紡いで機織りもした。働かずにおられないという人だった。戦時中に生活の場を広島へ移し、夫は原爆で亡くなり、スマも被爆した。戦後、三男夫婦との田んぼのない生活は働きようがない状態で、退屈な毎日だった。

 74歳ごろ、「原爆の図」の画家・長男位里と俊夫婦の勧めもあり絵筆を持つようになった。その頃から春から夏にかけては次男(私の父)の住む加計(現安芸太田町)で過ごすことが多くなった。滞在中は朝から晩まで絵筆を持ち、身近にある野菜、鳥、魚、生き物を描いた。時には小学生だった私を供に近くの山へ、渓流へ、スケッチに出掛けた。

 祖母スマの筆の動きはとても速く、私が1枚描き上げないうちに何枚も描いた。描く対象を眼(め)で捉えることと筆の動きが同じ速さで、描くことが楽しくてしょうがない様子だった。私が少し筆を休めると「思ったとおりに描いたらええんじゃ」と祖母なりに助言をくれた。

 スマの絵には実際には見えないはずのリンゴの種や、水仙の根、花の裏側が描かれていることがある。見えるものだけでなく、心に思ったことや、こうあってほしいという願望までも絵に描かれている。

 1951年ごろから、位里夫婦の勧めもあって院展へ出品した。連続入選し、院友となった。河北倫明氏の批評に次のように記されている。「丸木スマの素朴な表現を見ていると、今の絵には、何か大事なものが欠けていることがわかる」

 スマは自然と対話する中で生命の喜びを感受し、生きてゆく知恵を身に付け、いろいろなことを見通す判断を得た。己の感性に正直で、常に周りの人々に笑みを与え、決して愚痴を言わない人だった。年老いてから描き始めたスマの絵に、新鮮で生き生きした息遣いを感じる。絵からたくさんのことを考えさせてくれる人だった。 (アオバ建築設計事務所代表)

(2023年6月15日朝刊セレクト掲載)

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