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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <6> 興国同志会 保守派学生 右翼団体を創設

 東大新人会に対抗して、東京帝大内に右翼団体も生まれた。天皇主権説の憲法学者、上杉慎吉教授の下で保守派学生が大正8(1919)年に創設した興国同志会である。

 山口中、一高から法科へ進んだ岸信介(のぶすけ)も会員となる。極端な国粋主義には距離を置いていたが、天皇機関説の美濃部達吉博士や「民本主義」の吉野作造博士には「到底同感できなかった」という。

 岸は、曽祖父で名付け親の佐藤信寛(のぶひろ)から政治家的素質を引き継いだと自認している。信寛は浜田県権令(ごんれい)だった明治5(1872)年、下関に巡幸中の明治天皇から浜田地震被災の救援金を下賜された。佐藤は感激のあまり打ち伏して落涙し、周囲の者もつられて皆泣く。仁愛に満ちた近代天皇像がここに生まれた。

 岸が東京帝大在学中に森戸事件が起きた。経済学部の森戸辰男助教授(福山出身)が大正9(1920)年1月に「クロポトキンの社会思想の研究」を発表。無政府共産主義者に関する論文を、興国同志会は危険思想の宣伝と攻撃する。上杉教授の意をくんだ動きだった。

 経済学部教授会が森戸の休職処分を決め、京都帝大の河上肇教授は「大学としての自殺」と批判した。森戸は結局、朝憲紊乱(ちょうけんびんらん)の罪で起訴され失職する。当時の原敬(たかし)首相は「大学教授が売名の徒となりて、途方もなき意見を発表する」と憂慮した。

 岸は付和雷同していない。森戸攻撃には不賛成として興国同志会を仲間と離脱し、同会は分裂した。後に森戸論文について岸は「国体問題とは全然別個の私有財産制に関する経済思想の紹介で、研究は自由でいいと思った」と語っている。

 やがて岸は、クーデターによる天皇大権下での国家社会主義的政策の断行を説く北一輝に引かれていく。北の日本改造法案を徹夜で写し、友人と一緒に本人に会った。

 北は、岸の制服の金ボタンを指さし「日本から帰り辛亥革命に投じた若い中国人が皆金ボタンの服を着ておった」と語る。岸は北の風貌に非常に魅力を感じ「今でもその時の感動を忘れ得ない」と後に回想した。

 北の改造法案には大陸膨張主義も加味されていた。商工官僚として岸が満州国(現中国東北部)で産業経済の見取り図を描く際、北の改造論が脳裏によみがえったに違いない。

 新人会が労働界や左翼陣営に多くの人材を送り込んだように、興国同志会の後継団体は右翼・保守人脈の供給源となる。(山城滋)

岸信介
 1896~1987年。中学時代に佐藤家から岸家の養子に。農商務省に入省、満州国実業部次長、東条英機内閣の商工大臣など務める。戦後、A級戦犯被疑者として勾留され不起訴。自民党幹事長を経て昭和32年に首相、同35年に反対運動を押し切り日米安保条約を改定。

(2023年6月15日朝刊掲載)

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