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社説・コラム

『今を読む』 長崎大客員研究員 山口響(やまぐちひびき) G7広島サミット

政治ショー 被爆地の責任は

 5月の先進7カ国首脳会議(G7広島サミット)が成功だったのか失敗だったのかが盛んに議論されている。だがそもそもG7は、そこに私たちが何らかの期待をかけ、その成功・失敗を論じられるような場なのだろうか。

 G7は、1975年に米英仏伊日と西ドイツ(後のドイツ)の6カ国が開いた首脳会談を前身とする。米ドルの地位低下と石油ショックを受け、西側先進国がその経済を立て直すべく、先進国主導の経済秩序に「南」の途上国(近年はグローバルサウスと呼ばれる)を巻き込む方策を練ることが目的だった。

 冷戦終了後にロシアが加わり、いったんG8となったが、クリミア半島を侵攻した2014年に排除され、現在のG7の枠組みになっている。

 いずれにせよ、ここで確認しないといけないのはG7は7カ国による単なる私的な集まりであり、その7カ国が「世界の司令塔」であることを見せつけるための政治的なショーに過ぎないということだ。G7にはその決定を執行するための機関などはなく、共同声明は言いっ放しに終わることが多いし、毎年の議題も議長国の時の政権の都合に応じて変転し、一貫性がない。

 広島サミットでの核問題の扱われ方には、G7のそうした性格が色濃く反映されていたと言ってよいだろう。「核軍縮に関するG7首脳広島ビジョン」は既存の方策の焼き直しで新味に欠ける。しかもその多くは、岸田文雄首相が外相だった7年前に広島で主宰したG7外相会合で打ち出された内容とあまり変わりがない。それなのに、この間さして進展がなかったことへの反省は何も語られなかった。

 「広島ビジョン」はまた、核兵器の役割を正当化する文章を堂々と盛り込んだ。しかもこの一文は、4月に軽井沢であったG7外相会合のコミュニケにある文章と一言一句同じだ。一番大事なことは二度言う、といったところか。

 広島でサミットが開催されたこと自体に象徴的な意味があるという意見もあろう。私自身は「広島サミットが象徴するもの」を次のような意味で捉えている。

 第一に、広島でやすやすとサミットを開かせてしまったことの意味だ。おそらくG7首脳らはロシアや中国を含まない場で出す核軍縮声明に実効力などないことを、あらかじめ分かっていたはずだ。それでもなお、何らかの意味ありげなメッセージを広島から発信できると岸田氏らに誤認させてしまった広島・長崎は、自らの力量不足を自覚すべきではないか。

 第二に、ウクライナのゼレンスキー大統領が広島で語ったことの意味合いである。原爆資料館を見学した同氏はウクライナも「現在の広島のような復興や再建が必ずできる」と述べた。もちろん、ロシアによって多くの市民が殺傷され、街が荒廃していく国の大統領が復興を願う心情はよく理解できる。

 しかし、「ウクライナに関するG7首脳声明」が復興の国際支援計画についてやたらと詳述するのに対し、まずは殺りくを止めるためのロシアに対する停戦協議申し入れについて一言も語らないのは奇妙ではないか。これではまるで、大規模な破壊が長引いても立派に復興を遂げれば問題ない、と言わんばかりだ。

 だが戦争からの復興・再建など本当に可能だろうか。広島市民一人一人の復興に寄せる思いは別としても、被爆地からの発信は必要以上に復興に焦点を当て、復興が可能であるかのように思わせる言説を垂れ流してきたのではなかったか。ウクライナの破壊が今後しばらく続いても、「大丈夫、広島モデルがある」と思わせてきたのではないか。

 一度破壊されたものは元に復せない。それこそが被爆の実相だ。私たちは、原爆が破壊した街や体、暮らし、心、人間関係の生々しい現実を記録し語ってきたはずだ。なのにヒロシマはどうして、核廃絶という高邁(こうまい)な夢や復興への希望だけを語る地点へと、いつしか変わってしまったのだろうか。

 G7広島サミットは、G7そのものの問題よりも、核問題への被爆地の身構え方を問うていたように感じている。

 1976年長崎県生まれ。京都大卒、一橋大大学院社会学研究科博士課程修了。長崎大核兵器廃絶研究センター客員研究員。市民団体「長崎の証言の会」で被爆証言誌の編集長も務める。専門は長崎の戦後史。長崎市在住。

(2023年6月17日朝刊掲載)

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