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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <7> 「民本」のペン 露で消息絶った国際派記者

 東大新人会ができた大正7(1918)年12月には、学者や言論人が「民本主義」を広めるための団体「黎明(れいめい)会」も生まれた。やはり中心に吉野作造東京帝大教授がいた。

 翌大正8(19)年は雑誌創刊ブームに。前年の白虹(はっこう)事件で大阪朝日新聞を追われた長谷川如是閑(にょぜかん)らによる「我等(われら)」に始まり、進歩派オピニオン誌となる「改造」、黎明会の機関誌的な「解放」と続いた。

 雑誌で活躍したのがロシア通のジャーナリスト大庭柯公(おおばかこう)である。現下関市の長府生まれで東京育ち。陸軍のロシア語通訳などを経て35歳で新聞記者になり、軍艦便乗による世界各地の探訪記や随筆が評判となる。

 その仕事を「前半は国家主義的、後半は社会主義的な色彩に富む」と友人の如是閑は評した。「不羈(ふき)独立であるべき新聞が権力に降伏した」とされる白虹事件を機に、柯公は東京朝日新聞を辞めて黎明会に入る。ここから後半の仕事が本格化した。

 柯公は「新聞の民衆化」を唱えた。民衆的言論機関の新聞は本来、社会の公器であり、単なる営利的商品としてはならない、と。経営者が政府に妥協しようとしても、記者が社会の公僕として職務を全うできるように新聞記者組合を組織して独立的地位を保障すべきだと提言した。

 皇室と国民の間の特権階級である華族の全廃を主張。婦人の家庭からの解放を論じ、男女共学や夫婦対等な結婚制度への改革を求めた。平塚らいてうによる新婦人協会の旗揚げにも協力している。

 対外政策についても脱国家主義の論調となる。満州(現中国東北部)に逃れた朝鮮人の独立運動への弾圧強化を「欧米人に向かって人種無差別を提唱しながら、なぜ朝鮮人のために能(あた)ふ限りの無差別政治を開いてやらないのか」と批判した。

 当時の思想界はデモクラシーからマルクス主義へ急激に変化した。柯公も大正9(20)年に社会主義同盟へ加わり、前年入った読売新聞の編集局長職を解かれた。特派員に転じて大正10(21)年、革命後のロシア探究取材に旅立つ。シベリア南部チタから記事2本を送り、モスクワ到着の電報が最後の連絡となった。

 幕末の下関で倒幕派を支援した豪商白石正一郎は父の兄。「長州閥の子」ながら藩閥元締である山県有朋の権力執着を批判し続けた。「大馬鹿公(おおばかこう)」としゃれた雅号の国際派記者はロシアの地で謎に包まれたまま消息を絶った。(山城滋)

大庭柯公
 1872~?年。本名景秋。13歳で太政官出仕の父と死別し、苦学してロシア語習得。第1次世界大戦中、東京朝日新聞特派員としてロシア軍従軍取材。革命後ロシアの取材時にスパイ容疑で逮捕、モスクワ投獄説が流れた。1992年にロシア国家保安省が名誉回復を決定した。

(2023年6月17日朝刊掲載)

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