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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <8> 三原女子師範事件 因習打破求めた女性教員

 「私は私の主人になりたい」。広島県の小学校教員から女性解放の道へ進んだ篠木のぶの言葉である。

 大正デモクラシーの時代に女性たちも動く。平塚らいてうが市川房枝を誘って大正9(1920)年3月に新婦人協会を正式に設立し、女性の地位向上を求める運動を始めた。

 同年10月に東京で全国小学校女教員大会があった。協会は組織拡大を図るために大会後、女性教員を招いて懇談会を開く。広島県からは篠木(三原尋常高等小訓導)、坂口みつ(福山同)ら若手4人が参加した。

 良妻賢母が女子教育の目標とされ、教職界にも当然のように男女格差があった。これに対し、時代の空気を吸い込んだ若い女性教員たちは因習打破の声を上げ始めていた。

 懇談会で平塚は「母と女教員が協力して参政権を要求する時代が必ず来る。ご奮励を」と呼びかけ、市川は女教員の団結を促した。個々に悩みながらも自立の道を探っていた篠木らの心に光が差し込む。

 篠木らは協会の支部をつくろうと方々に足を運び会員を勧誘した。同年11月15日に母校の三原女子師範学校で平塚の講演会を催す。女性教員30人に同校校長ら男性も参加し、講演後に会員たちは三原、福山、広島の3支部を結成した。意気上がる篠木と坂口は協会機関誌「女性同盟」のさらなる送付を頼んだ。

 ところが、県当局は教員服務規則を盾に協会加盟を禁止する。協会は婦人参政権を主張しており、教員は政治運動に関与してはならぬ、と。「女性同盟」の購読も禁じた。

 支部のリーダーたちは県に抗議する。篠木は地元の芸備日日新聞に寄稿し「協会は政治結社ではない」と弁明した。しかし、婦人問題を比較的よく取り上げてきた同紙も「協会の運動と女子師範の教育方針の不一致」を理由に県を支持した。

 同紙は、目指すべき女子師範の生徒像をこう規定した。「明敏なる新思想の持ち主たらしむるよりも円満なる婦徳の指導者たらしむる」

 こうした規範に基づく圧迫に坂口は「私達は何故斯(か)くまで束縛を受けなければならないのでせう。自分の信ずるところ自分の考へるところに自由の天地が見出(みいだ)したい」と協会に書き送った。(山城滋)

三原女子師範学校
 明治42年に広島県師範学校から分離し御調郡三原町(現三原市)に開校。本科第一部(定員320人)、第二部(同40人)の生徒が厳格な寄宿舎生活を送る。女子就学率向上による男女別学方針(明治30年)に沿い設置。

(2023年6月20日朝刊掲載)

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