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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <9> 女性同盟 県の圧迫を非難 全国に反響

 新婦人協会の機関誌「女性同盟」は大正9(1920)年10月の創刊である。当時34歳の平塚らいてうは創刊号の巻頭で、かつて「青鞜(せいとう)」に書いた「元始(げんし)、女性は太陽であった」は「婦人覚醒の第一声に過ぎなかった」と振り返る。

 「青鞜」発刊から9年。母となり、男性中心の社会を改造する必要性を痛感した平塚は「団結、連絡、統一、組織が必要です。我(わ)が協会はそのための機関」と宣言した。

 そんな平塚は、自ら立ち会って同年11月に協会支部を結成した広島県の女性教員たちのことを「あの本気な、真実な、目醒(めざめ)たる尊い魂」と形容した。県当局の圧迫を協会は組織全体への挑戦と受け止める。

 同誌は大正10(21)年新年号で広島事件(三原女子師範事件)を特集した。事件顚末(てんまつ)には三原支部の篠木のぶ、福山支部の坂口みつによる県視学との会見報告もある。協会の婦人参政権を求める衆議院選挙法改正、女性の政治参加を求める治安警察法第5条改正の請願が教員服務規則に触れる政治活動、というのが県の見解だった。

 同誌は沢柳政太郎全国小学校女教員会会長の「政治結社でない限り女教員の入会は差し支えない」との異論を掲載した。読売新聞記者の大庭柯公(おおばかこう)は「地方官の無法無理解な干渉沙汰」と県当局を非難し、最後は現状打破派が勝つと女教員たちを激励。全国に反響が広がった。

 篠木は結局、同年3月に退職。女性解放の道を求めて上京し、短期間ながら同協会の書記に就く。養子縁組で平田姓となった後、先進的な保育に取り組んだ。坂口は地元にとどまって女性の覚醒を訴え続けたが、支部活動は次第に先細りとなる。

 新婦人協会も長続きしなかった。奮闘した平塚は健康を害し、市川房江も渡米する。残された会員たちで大正11(22)年3月に治安警察法第5条改正という成果を上げ、同年12月に活動の幕を3年弱で閉じた。

 大正13(24)年には市川たちが婦人参政権獲得期成同盟を結成。翌年の男子普通選挙制実現を受け婦選運動は昭和初めに高揚期を迎えるが、中国大陸の戦火にかき消された。

 女性参政権は大平洋戦争の敗戦を経て昭和21(46)年、衆院選挙で実現する。三原女子師範事件から四半世紀がたっていた。(山城滋)

広島県内の婦人参政権運動
 市川たちの婦選獲得同盟が昭和4年に福山と呉で大演説会を開催。同5年の広島支部結成で運動は盛り上がり、県議会は婦人公民権付与法案提出を求める内務大臣宛て意見書を採択した。

(2023年6月21日朝刊掲載)

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