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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <10> 変わる青年団 自主化運動 全国で相次ぐ

 大正デモクラシーは地方の青年にも「民本主義」の風を吹き込む。一方で、自身の信条と新思潮とのギャップに悩まされたのが青年団生みの親、広島県沼隈郡(現福山市)の山本滝之助だった。

 大正7(1918)年5月に全国青年団連合大会が東京で開かれた。山本の宿願達成となる大会で、ひときわ目立ったのが陸軍中将の田中義一だった。民本主義を主唱する吉野作造は、軍の統制強化につながる青年団指導の在り方を雑誌「中央公論」で批判した。

 山本の足元でも、変化が起きていた。沼隈郡の民衆教化団体である先憂会が発行する雑誌「まこと」が舞台となった。青年の修養のために山本が提唱し、郡内青年会でも実践されていた「一日一善」への異議申し立てが掲載されたのである。

 大正4(15)年末の同誌「青年論壇」欄で、一青年は「あのすさまじい時代の思潮の波の音が聞こえぬのか」と問う。一日一善を「そんな事にばかり汲々(きゅうきゅう)していては、より偉なる善に眼(め)がつかぬ」と批判。「模範青年形式的当局者=優良青年会」などと官製青年団をやゆし、「形式、没我の奴隷たる眠れる青年若年寄の覚醒」を呼びかけた。

 大正7年の米騒動を経て「社会改造」が叫ばれ、行政の統制から抜け出す青年団の自主化運動も始まった。沼隈郡瀬戸村では大正8(19)年、各支部の会員自らが評議員を選んで自主化の一歩を踏み出す。時期尚早と意見した山本も追認した。

 同様の動きが全国で相次ぎ、山本も新思潮を分かろうとデモクラシー関係本を読んだ。時代に追い付くための努力はしかし、徒労に終わる。「どこまでも教育勅語を信仰する」一念が妨げになったのだろうか。

 大正9(20)年3月の日記に「思想も理解出来ず。実行も衰へる。信念も定まらず。唯自分のツマラヌを感ずるのみ」とある。自ら編集する地方青年向け雑誌「良民」も前年末に廃刊を余儀なくされていた。

 上からの修養主義に飽き足らない沼隈郡の若者たちは青年団改造演説会を開いて気勢を上げる。大正12(23)年には青年結社の備南立憲青年党を結成した。地方人士の立憲的自覚の促進など民本主義的な綱領を掲げ、各地の青年結社と共に普選運動を展開していく。(山城滋)

 青年団の自主化 大正9年に内務・文部大臣は青年団自治拡大の訓令を出し現場の動きを追認。これを受け広島県内でも青年団自治が進む。長野県下伊那では文化活動が盛んになり、社会主義を学ぶ無産青年団運動が起きた。

(2023年6月22日朝刊掲載)

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