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連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 旧ソ連編 <4> トムスク核施設(上) 風下汚染、消えゆく村 荒れる家、人影まばら

 ウラル地方に位置したマヤーク核施設から東へさらに千五百キロ。かつてコード名「トムスク7」でのみ記された秘密都市「セベレスク」と旧ソ連最大の兵器用核物質生産施設「シベリア化学コンビナート」は、シベリア地方の古都トムスク市から北西へわずか十五キロ、トム川のほとりにあった。

 川向こうの彼方(かなた)に見えるいくつもの冷却塔。手前に立ち並ぶ従業員や家族ら約十一万人が住むセベレスク市のアパート群。シベリアの辺境の地に誕生した巨大核施設の建設は、ソ連が最初の核実験に成功した一九四九年にさかのぼる。

 「兵器用プルトニウムの原子炉が稼働したのは、建設着工から六年後の五五年。再処理工場でのプルトニウム生産の開始は、六一年のことだ」

 ロシア資源省トムスク州担当資源委員会のユーリ・ズブコフ環境安全部長(62)は、滑らかな口調で言った。核施設周辺を車で巡った後に訪ねた、トムスク市中心部のビル六階の一室。ズブコフさんは、資料を前に核施設の説明を続けた。

 「プルトニウム生産目的の原子炉は、結局六五年までに五基建設された。このほかウラン235の濃縮工場、水爆の引き金になるプルトニウム・ピット(弾芯(しん))の加工工場などだ」

 兵器用プルトニウムの生産は、九二年に全面中止となった。しかし、今も五基の原子炉のうち二基はセベレスク市全体とトムスク市の三〇%の暖房をまかなうために稼働しているという。

 「どちらも三十五年以上たっている古い原発でね。アメリカとの協定で本来はとっくに閉鎖しているはずだった。しかし氷点下三〇、四〇度にもなるシベリアの冬を越すのに暖房用のエネルギーが足りず、二〇〇八年まで特別に運転することが認められた。環境を監視する立場のわれわれには、事故の不安が消えなくて…」

 ズブコフさんはトムスク技術大学を卒業後、放射線測定装置をつくるなど一貫して放射線管理に携わってきた。が、ゴルバチョフ政権下、ペレストロイカ(情報公開)が進む八九年まで、彼の仕事の内容も市民に知られることはなかった。

 トムスク核施設では、これまでに当局が認めたものだけで三十六件の事故が発生している。最後に起きたとされるのが九三年四月六日、プルトニウム再処理工場での爆発事故である。

 「三十五立方メートルのタンクにプルトニウム、ウラン、硝酸溶液など約二十五立方メートルの物質が含まれていた。爆発を防ぐためには常に圧縮空気を送り、よくかき混ぜておかねばならない。国際原子力機関(IAEA)の調べでは、その空気が供給されなかったか、不十分だったために爆発が起きたと分析している」

 爆発の衝撃でタンクと建物の一部が壊れ、そこから放射能量約一・六テラ(10の12乗=一兆)ベクレルの放射性物質が環境へ放出された。放射能ちりは風下の北東に流れ、距離にして約三十七キロ、広さ二百五十平方キロ以上の村や畑、湖や森を汚染した。最も汚染された地域では、空気中の放射線量が毎時約四百マイクロレントゲン、この辺りの自然放射線レベルの約四十倍に達した。

 「汚染地帯に住む村の人たちには気の毒だけど、たまたま風向きが人口の少ない方角へ吹いていたから幸いした。IAEAなどが定めた事故基準で言えば『重大な異常事象』を意味する『レベル3』だった。もし、風向きがトムスクへ向いていて市内がすっぽり汚染されていたら、同じ放射能量でも『大事故』に当たる『レベル6』に跳ね上がっていたんだ」

 ズブコフさんは壁に張った汚染地図をなぞりながら言った。村の中では、再処理工場から十五キロ余り離れた人口約二百人のギオルゲフカ村が一番汚染されたという。

 「事故の情報はモスクワの原子力省にはすぐに伝えられても、地元の行政機関には一日過ぎてから。そのために汚染地帯の道路封鎖が遅れ、トラックなどの車輪で汚染区域が広がった。トムスク市内にもあちこちにホットスポットができてしまった」

 情報不足ゆえに後手に回った対策。飛行機から放射線量を測定するその後の汚染調査でも、核施設上空はもとより、トムスク市やセベレスク市上空の飛行も禁止された。「われわれが入手できる情報には、いまだに限界がある」と、ズブコフさんは当局の閉鎖性を嘆く。

 ズブコフさんと会った翌日、トムスク市から約三十キロのギオルゲフカ村へ車を走らせた。六月のシベリアの木々の緑は、どこまでも鮮やかである。未舗装の田舎道に入ると白い無数のチョウが乱舞し、時折、羽を休めた道路のあちこちで、ひとかたまりになった数十匹のチョウが車の犠牲になっていた。

 「放射能 危険地帯! イチゴ・キノコ・草の採集を禁止」―村に近づくにつれ、道ばたにはペンキのはげかけた標識が目立つようになった。

 三十分余で村の入り口にさしかかる。人気のない荒れ果てた家々。通りには人影すら見当たらない。ようやく村のはずれまできてブタを追うニーナ・イジュモアさん(68)に出会った。

 「この村にはもう二十人も住んでいない。みんな死んだり、よそへ移っていった。学校も店も無くなるし、さびれる一方だよ」。イジュモアさんは寂しそうに言った。

 九一年末のソ連崩壊まで続いたコルホーズ(集団農場)では、搾乳婦として働いた。「あのころは二百人以上がいて活気があった。給料も出たし、キノコでも何でも森から採ってきて食べた。今はトマトも温室でないと作れない。みんな放射能という見えないもののせいでね」

 事故直後、防護服に身を包んだトムスク核施設の関係者らが、放射線量を測定したり、汚染土を袋に詰めて持ち帰ったという。そんな作業を見ていた村の子どもたちに、「念のために」と避難措置が取られたのは、事故から一週間以上たってからだった。

 放射能汚染に伴う村びとへの国からの被害補償金は、日本円にして一人当たり七千八百円。事故対策の一環で、とある民家の軒先には放射線異常を知らせるガンマ線測定器が取り付けられていた。人の気配で家の中から出てきたアントニア・ヘルマンさん(74)は「今年の初めから故障しているけど、だれも直しにこない」と、数値を示さぬ測定器を見上げた。

 一カ月前に七十七歳の夫を脳梗塞(こうそく)で亡くしたばかりというヘルマンさん。彼女やイジュモアさんら約二十家族は、国にチェルノブイリ原発事故のヒバクシャと同じような被害補償を求め、裁判を続けている。

 「もう五、六年になるよ」とヘルマンさん。だが、明るい見通しは何も立っていないという。

 厳しい冬場はトムスクやセベレスク市内に住む子どもたちの所へ身を寄せる人がほんんど。「汚染の心配さえなければ、せめて子どもや孫たちが家や畑をダーチャ(菜園付き別荘)代わりに使ってくれる。でも、それもかなわぬ夢となると、私らが死んだらこの村は滅びてしまいます」

 ヘルマンさんの言葉を暗示するように、村のたたずまいはすでに「ゴースト・ビレッジ(死の村)」の様相を呈していた。

トムスク核施設
 正式名称は「シベリア化学コンビナート(旧コンビナート816)」。1949年、ソ連時代の国家保安委員会(KGB)のベリア議長が、シベリア鉄道から約50キロ北に位置する辺境の地を「核物質生産の秘密を守る理想の場所」として選んだ。「トムスク7」のコード名が使われた。

 5基の原子炉から使用済み核燃料を取り出し、61年から92年まで続いた再処理工場での兵器用プルトニウムの総生産は、約73トンとみられている。このほか濃縮ウランやトリチウム、六フッ化ウランなども製造。核燃料サイクルの「デパート」と形容されるほどさまざまな施設がそろう。

 92年、米国の経済援助で核弾頭解体から出る高レベルプルトニウムやウランの地下貯蔵庫(5万平方メートル)の建設を計画したが、住民の強い反対などに遭い、実現していない。新しい原発の建設も計画されている。従業員は約1万5000人。(文と写真 編集委員・田城明)

(2001年10月7日朝刊掲載)

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