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連載・特集

[続・哲代おばあちゃん 103歳ありがとうの人生] 「教師哲代さん」の言葉

ちょっと助けてやると子どもたちは変わる

子どもはね、ええとこ探してやらんといけん

 尾道市の103歳、石井哲代さんは20歳から56歳まで小学校の教師をしていました。これまでの取材でも折に触れ、教師時代の思い出話を聞かせてくれた哲代さん。その記憶は鮮やかで、子どもたちとの日々が目に浮かぶようです。今回は、取材ノートに書き留めた「教師哲代さん」の言葉を紹介したいと思います。(鈴中直美、木ノ元陽子)

  ≪太平洋戦争が始まる前年の1940年に、吉野尋常高等小学校(現府中市上下町)の先生になった。≫
 駆けっこだけは得意中の得意じゃけど、勉強は嫌いだったん。それでも、学校の先生が父に師範学校への進学を勧めたらしくてね。毎晩、先生の家に通って勉強を教えてもらって、三原女子師範学校の入学試験に合格したんでございます。今となっては、先生や父の言う通り教師になって本当によかったと思うとります。

 赴任した学校へは、家から1里(約4キロ)の距離を歩いて通っておりました。家に自転車はあったんですが、よう乗らんから仕方なく。そうしたら、見かねた高等科の男子生徒3人が「練習しよう」って声をかけてくれてね。放課後になると学校で猛特訓してくれたの。後ろを支えて走ってくれて。夏休み前にようやく1人で乗れるようになったんです。うれしかったですねえ。それから教師をやめるまでの間、自転車には大変お世話になりました。

 朝、学校に向かう道には保護者がようけ待っとって「先生!」って呼び止めるんです。「帳面がないんじゃが、こらえてつかあさい」「うちの子、今朝は顔も洗わずに家を出ましたで」って具合で話が弾むの。あっちで話し、こっちで話し、長くなりそうと思ったらスピードを上げて通り過ぎようとするんじゃけど、やっぱり話し込んでしまう。だから遅刻せんように家をずいぶん早く出ていました。

  ≪担任をした学級にはすべて思い入れがある。中でも「悪ガキぞろいでした」という3年生63人の学級を受け持った経験は、教師としての原点になった。≫
 私は毎日怒り過ぎて声が出んようになったの。みんな授業中でも勝手にトイレに行くし、とにかく時間にルーズなんです。

 そこで放課後、子どもたちに廃品回収をさせることにしました。みんな面白がってね。リヤカーを引いて街のあちこちでくぎなどの金物をもらい歩いたの。それを換金して小さな時計を買って教室に置いたんです。「あなたらが買った時計じゃから、これからは時間を守らんといけんよ」って言うてね。



 それからです。子どもたちは時計を見て動けるようになって、学級がだんだんと落ち着いてきたの。こちらがちょっと助けてやると子どもたちは変わるんですね。それを目の当たりにした出来事でした。

  ≪教師時代を振り返るとき、お母さんのようなまなざしも見え隠れする。≫
 1、2年生だと昔は学校でお漏らしする子がけっこういました。常に着替えを2、3枚用意しておいて、汚れたパンツとお尻を学校の前の川で洗ってやるんでございます。通りかかったバスの運転手さんが「先生やりよるのー」って声をかけてくれるの。みんなが見守ってくれていました。それにしても、子どもも先生にお尻を洗われても嫌がりもせんと。かわいいもんです。

 子どもはね、ええとこを探してやらんといけんと思うんです。悪いところはみんな自分でも分かってるんじゃから。私は「あゆみ」にはええことだけ書いておりました。そこを伸ばしてほしいという思いでしたね。

  ≪太平洋戦争が始まった41年12月8日の朝礼の光景は忘れられないという。≫
 大霜が降りた寒い朝でした。朝礼台に立つ校長は興奮して頭からは湯気が立っておりました。「戦争が始まったのだ」と言われてもピンとこなくてね。霜で真っ白になった台から滑り落ちるんじゃないかと、そればかり考えていました。

 でも徐々に戦争の影響を色濃く受けるようになりました。運動会の競技も、女子はなぎなた、男子は銃剣術が加わりました。運動場にサツマイモを植え、子どもたちとドングリやヨモギを集めに行きました。午後は高等科の生徒を連れて農作業や稲刈りに出かけました。

 「竹やり研修」というものに駆り出されたこともあります。甲奴郡の指導者に指名されてね。庄原の七塚原に3日間泊まり込みで、「みそぎ」だとかで川に入ったり、竹やりを持って「えいっ」て突いてみたり敵を追い払う練習をするんです。

 でもね、当時は兵隊が見てる中で恐ろしくて言われた通りやるしかなかった。自分がやっていることの意味を考える間もなかったです。戦争というものは人を殺し合うもの。地獄ですよ。お父さんが戦死した子もいました。再びそういう時代になってはいけません。未来は子どもたちのものですけえね。大人が守っていけるように。どうかどうか、お願いします。

退院しました

 前回の記事で哲代さんの再入院を報告したところ、読者の皆さんから心配の声が多数寄せられました。安心してください。19日に退院されました。「足がちいと痛んで、やれそれさっさとは動けませんが、しゃべるのは大丈夫。変わりございません」。電話で、いつも通りの張りのある声を聞くことができました。当面はめいの坂永弥生さんのお宅で静養されます。しばらくしたらお話を伺いに行き、今の哲代さんの思いを皆さんにお伝えしたいと思います。

(2023年6月26日朝刊掲載)

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