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連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 旧ソ連編 <10> セミパラチンスク核実験(下) 「冷戦のツケ」後世に重く 1年間に子ども6人死亡

 「お待たせしました」

 ブルーの着衣に聴診器を手にしたアバイ地区総合病院小児科主治医のショルパン・ムハメドジャノバさん(41)は、回診を終えると自室に戻り、カラウル村を中心とした地区の人びとの健康状態について、自らの体験を交えながら話し始めた。

 「実は私の父は、一九五三年八月十二日の初めての水爆実験の際に、村に残された四十人の男性の一人でした。ソ連軍によって、人体実験に使われたのです」。彼女はのっけから、ショッキングな話を持ち出した。

 アバイ地区の中心で、カザフ人が誇りとする民族詩人アバイ・クナンバエフの生誕の地でもあるカラウル村は、セミパラチンスク核実験場の南端から南東へ約八十キロ。大気圏核実験が行われた「シャー地区」からは約二百キロである。

 ムハメドジャノバさんがいう初の水爆実験の威力は四百キロトン。ソ連がそれまでに実施した三回の原爆実験に比べ十~二十倍、広島原爆(十五キロトン)の約二十七倍にも相当した。

 ソ連軍は実験に伴う「死の灰」の影響を避けるために、当時人口一万人弱(現六千人)だったカラウル村をはじめ、風下地域の住民の強制避難を実施した。しかし、このとき「四十人の成人男性は村に残せ」との命令が出されたのだ。

 「信じられないかもしれないけど事実です。父は爆発時の太陽のような光や、異様な色をした雲が流れてくるのを見たと言っていました」

 地上三十メートルの鉄塔上で炸(さく)裂し、地表のあらゆる物を空に巻き上げながら南東に流れたその雲は、やがて放射性降下物としてカラウル村周辺を激しく直撃。はるか彼方(かなた)にまで降りそそいだ。

 「村に残された住民は、全員大量の死の灰を浴びたのです。そのために父は、私がもの心ついたときには牛の世話など農作業をしていてもすぐに疲れが出て病気がちでした」

 ムハメドジャノバさんの父は、八四年に肺がんのために六十五歳で死亡した。彼女によれば、当時村に残された住民のほとんどは六十代までに亡くなり、生存している人はもういないという。

 「五四年に生まれた六歳年上の姉は、先天性心臓疾患のために二十三歳で死亡した。私も貧血で疲れやすい。恐らく大気圏や地下核実験が続いた当時にセミパラチンスク核実験場周辺に住んでいた人たちで、本当に健康な人はいないと思う。その子どもたちへの影響も深刻です」

 核実験場に隣接するサルジャール村や、広島の市民団体「ヒロシマ・セミパラチンスク・プロジェクト」が支援に力を入れるカイナール村などを含むアバイ地区の人口は約一万七千人。うち十五歳以下の子どもたちは五千七百四十人。その中で重度の先天性障害者は、二〇〇〇年末で百六十一人に達し、その数は年々増えているという。

 「今年の初めから四カ月間で三人の子どもが脳腫瘍(しゅよう)で死亡し、白血病で亡くなった者もこの一年で成人ひとりを含め四人もいます。ほかにも子どもたちの免疫力が弱いとか、妊婦の流産や死産が目立つとか、挙げたら切りがないほどです」。地区の統計資料を参照しながら説明するムハメドジャノバさんの口調は、だんだんと重くなっていった。

 大気圏核実験は、ほとんどの場合、風向きが北から南へ吹いているときに行われたと言われている。しかし、現実には実験場の南の地方ばかりでなく、東方約百八十キロに位置するセミパラチンスク市や四百キロのウスチカメノゴルスク市、北東約六百キロのロシアのアルタイ地方など、その時々によって広範な地域が「風下」となった。

 セミパラチンスク市内の市立診断センターで会った内科主治医のサガダット・サガンディコーバさん(50)も、「病人が多いのはポリゴン(実験場)周辺の村だけではない。セミパラチンスク市や周辺でも同じ傾向にあります」と強調した。

 同センターの患者の診断では、胃がんや肺がん、食道がんのほかに、最近は女性の乳がんや子宮がんも増えているという。さらに「第二、第三世代への影響も見逃せない」とも。特に子どもたちの甲状腺(せん)がんが顕著であるほか、脳腫瘍なども見られるという。

 「これらのすべてが放射線被曝(ばく)の影響とは限りません。でも、四十年間にわたって続いた核実験による直接、間接の被曝と深く結びついているのは間違いありません」と、サガンディコーバさん。

 彼女の紹介で脳腫瘍の手術を九八年に受け、今も家庭で療養中のアナトーリー・シェル君(14)の家族を、セミパラチンスク市内のアパート二階に訪ねた。

 こぢんまりとした居間。ソファに腰を下ろした母親のスベトラーナ・ズビンスカヤさん(32)は、そばのアナトーリー君の肩にときおり手を掛けながら体験を語った。「息子は小さいときは、近くの川で泳いだりしてとても元気な子どもだった。でも、十歳になる前から歩いていてふらついたり、少しずつ様子がおかしくなった。九七年末に小脳のがんだと診断されたときは、頭の中が真っ白になってしまって…」

 診断から二週間後には、セミパラチンスクの病院より設備の整ったロシアのバルナウル市で手術を受けた。他の器官への悪影響を防ぐため、腫瘍はまだ少し残っているという。その腫瘍を刺激しないように、抗がん剤は使わず、ハーブ治療を続ける。

 「アナトーリーの病気は百パーセント核実験のせいだと思っています。川で泳いでいて放射性物質を体内に取り込んだかもしれないし、この町で生まれ育った私たち親の影響かもしれません」

 母親にとって、心配は長男の病状ばかりではなかった。今は元気な二男のジーマ君(7つ)の将来の健康が気になって仕方がないのだ。「長男もジーマの年ごろはまだ元気だった。でもその後の経過を考えると、気にしないようにと思っても気になってしまいます」

セミパラチンスク核実験場
 旧ソ連の核実験場として、モスクワから東南へ約2800キロの平原が選ばれる。広さは南北約190キロ、東西約150キロで四国とほぼ同じ面積。

 核実験の区域は、中央部北寄りの「シャー地区」で大気圏核実験、中央部南寄りの「ゲー地区」と東端の「ベー地区」で、それぞれ地下核実験を実施した。

 1949年8月のソ連最初の大気圏核実験は、プルトニウム爆弾で、規模は広島原爆(15キロトン)よりやや大きい20キロトン。30メートルの高さの鉄塔上で爆発し、「死の灰」は東北に流れ、ロシアのアルタイ地方辺りまで高汚染地域となった。53年8月の最初の水爆実験(400キロトン)を含め、米英ソ3国の部分的核実験停止条約調印(63年)前の62年末までに計118回(うち5回は起爆失敗)の大気圏核実験が実施された。

 89年10月まで続いた地下核実験は、「ゲー地区」で239回、「ベー地区」で109回の計348回。ベー地区では、貯水池を造るための地下核実験でできたバラパン湖がある。ロシア原子力公共情報センターの記録では、地下核爆発のうち放射能漏れは168回を数えている。

 反核グループ「ネバダ・セミパラチンスク運動」などの要求で、90年に実験場は閉鎖された。(文と写真 編集委員・田城明)

(2001年11月18日朝刊掲載)

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