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連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 旧ソ連編 <11> カプスチンヤール核実験 知られぬ被害、救済遅れる 先天性障害やがん多発

 「足が曲がって目も見えないこの子は、マルコフちゃん。ウルダ生まれで九歳。左腕が途中からないこの子は、メンデシュフちゃん。ウルジンスキー生まれで八歳。足も腕も曲がったままで寝たきりのこの子はマリカちゃん…」

 西カザフスタン州の州議会議員で、核被害者支援市民団体「ナリン」代表のカケン・クビシノフさん(70)は、先天性障害の子どもたちの写真を示しながら説明を続けた。

 州都ウラリスク市の市警本部三階にある州議会議員事務所。一つのキャビネットには、百五十枚を超す先天性障害者の写真をはじめ、クビシノフさんがカザフスタン独立翌年の一九九二年以来収集してきた、カプスチンヤール核実験場での核実験やヒバクシャに関するデータが詰まっていた。

 「旧ソ連のポリゴン(核実験場)で知られているのは、セミパラチンスクや北極海に近いノバヤゼムリャ島ぐらいなもの。カプスチンヤールと言っても、名前を聞いたこともなければ、どこにあるかも知らない人がほとんど。セミパラチンスクと同じように、がんの多発や先天性障害など多くの被害者がいるのだが…」

 クビシノフさんは、机に並べた写真を片づけながら無念そうに言った。そして今度は、カプスチンヤール核実験場を示す一枚の手製の地図を広げた。

 「ポリゴンの面積は、西カザフスタン州とアトラウ州を合わせて約三万平方キロ。カスピ海から約二百キロ北の砂漠地帯に東西に長く延びている。大気圏核実験やロケットの発射、軍事演習も行われた多目的の軍事演習場みたいなものだ」

 その実験場の西端から西へ約十キロ離れた所に、この地域では一番大きなウルダという村があった。人口一万人余。クビシノフさんの出身地である。彼は大気圏内・圏外での核実験が続いていた六二年まで、村で過ごした。

 「演習場の中で何かが行われていたことは知っていても、核実験なんてだれも思わなかった。だから多くの者が病気になっても、なぜそうなるのか分からないで諦(あきら)めるしかなかった」と、クビシノフさんは振り返る。

 彼はその後、家族とともにウラリスクに出て警察官として二十八年間勤務。年金生活を迎えた九一年末にはソ連が崩壊し、西カザフスタンでも核実験が行われたとの情報が少しずつ明らかになり始めた。

 「実際に何が起きたのか、その事実を知りたい」―クビシノフさんの内部で、三十年間消えることのなかった疑念が膨らんだ。

 そこには個人的な体験も重なっていた。三人の子どものうち、六〇年にウルダ村の近くで生まれた長男(41)は、腎(じん)臓が一つしかなく、ウラリスクに住む今も、病弱である。

 「息子の病気や、大勢の周辺住民の健康被害と核実験は関係しているのではないか…」。そんな思いに駆られて、カプスチンヤール核実験についての情報を公開するよう、九二年に初めてモスクワへ手紙を書いた。

 だが、ロシア政府は公開を渋った。何度も要請の手紙を書くうちに、彼の元に四回分の核実験データが送られてきた。さらにカザフ政府の後押しもあって、八回分が追加された。

 しかし、そのうちの二回分はほぼ同じ内容だった。「結局、分かったのはカプスチンヤールで十一回の大気圏内と圏外の核実験が実施されたということと、十回分の威力や爆発高度などだ。なぜか、一回分だけはそれすら分からない」

 クビシノフさんによると、最初の実験が実施されたのは五七年一月。爆発規模は十キロトンで、爆撃機から投下された爆発地点は地上十三・七キロ。最後は六二年十一月で、規模は三百キロトン。ミサイルで発射された爆発地点は高度五十キロである。

 「セミパラチンスクでの実験は、原爆や水爆の威力や性質を知るためのものだった。ここでは、爆撃機からの投下など実戦を想定しての訓練だった。敵の偵察衛星を破壊するような実験までやっているよ」

 ロシア政府が公開したデータから分かるのは、これだけである。

 広大な実験場のどの辺りの上空で爆発させたのか。爆発時の放射性降下物はどの程度の量で、どこへ降りそそいだのか。なぜ一回分のデータを明らかにしないのか…。クビシノフさんには「分かっていても、都合の悪い情報は公表しない」と映って仕方がない。

 「ロシア政府は『上空で爆発させているから人体に影響はない』と主張している。地上で死の灰を浴びた者のことなどおかまいなしだよ。十一回という回数だって、本当はもっと多かったかもしれないんだ」

 「安全保障」の名の下、人も動物も植物も一切の生態系を無視して核実験を行い問題だけを残してカザフの地から去ったロシア政府。クビシノフさんのモスクワに対する不信の根は深い。

 彼との取材に先立ち、化学者のビクトル・キヤンスキー博士(54)に、ウラリスク市内の職場で会った。九二年の「ナリン」誕生以来の科学アドバイザーである。西カザフスタン州の食品衛生管理研究所に勤める博士は、大学教授時代の九七年、カザフの核物理学者と医師の専門家三人で、カプスチンヤール核実験の影響について一年がかりで調査していた。

 「国連の財政支援があってね。最初は実験場や周辺をヘリコプターで飛んで、残留放射能の強い所を探した。そんな場所を選んでから地上に降りて、さらに詳しい調査をした」。恰幅(かっぷく)のいいキヤンスキーさんは、女性職員らが持ち込む用事をてきぱきとさばきながら、早口で言った。

 最も残留放射能の強い所で、この辺りの自然放射線量(約十マイクロレントゲン)の三~四倍。値そのものはそれほど強いものではなかったという。

 「しかし、実験からすでに三十年以上がたっての調査。実験のときの直接的な影響だけでなく、砂漠に降りそそいだ放射性降下物が強い風で、砂や冬場に乾燥して地表に浮いた塩などと一緒に飛び、周辺住民の体内に取り込まれた可能性は高い」と強調する。

 さらに、西カザフスタン州境から南へ約七十キロのアトラウ州アズギール村の近くでは、六六年から七九年にかけ、十七回の「平和目的」の地下核実験が実施された。それによる放射能漏れも考慮に入れなければならないという。

 キヤンスキーさんらの調査では、放射線被曝(ばく)の影響と同時に「ロケットやミサイル発射に伴う液体燃料などによる化学汚染の影響も無視できない」とする。二つの要素が複合的に作用して、実験場周辺住民約十四万人に、がんや気管支障害、貧血、死産、先天性障害などが多発しているというのだ。

 キヤンスキーさんらの調査結果は、クビシノフさんら「ナリン」のメンバーを勇気づけた。

 出身地の選挙区から、九三年に州議会議員に初当選。以来、ヒバクシャ支援を訴えてきたクビシノフさん。九九年には彼がイニシアチブを取り、西カザフスタン州の六地区とアトラウ州の二地区を「核実験により被害を被った環境災害ゾーン」に指定し、住民に補償するよう自国政府に要求した。

 二〇〇〇年二月には、アルマトイ市でナザルバエフ大統領と会って直訴した。「大統領は理解を示してくれた」というクビシノフさん。だが、地元の国会議員を通じて提出された法案は二年間据え置かれたままである。

 「本来ならロシア政府に要求すべき補償だよ。カザフスタンはまだ独立したばかりで財政事情も厳しい。でも、早期の年金支給など、せめてセミパラチンスク核実験のヒバクシャと同等の補償は得たい。こちらでは外国からの援助は何もないのだから…」

 ロシア政府への憤りと自国政府への遠慮がちな要求。海外からの支援への強い期待―。老紳士の言葉と苦渋に満ちた表情には、今なお見捨てられたままのこの地域のヒバクシャの思いが凝縮されていた。(文と写真 編集委員・田城明)

カプスチンヤール核実験場での大気圏内・圏外核実験

実験日          爆発規模    地上からの爆発高度
1957年 1月19日  10kt    13.7km
1958年11月 1日  10kt     5.6km
1958年11月 3日  10kt     6.2km
1961年 9月 6日  10kt    22.7km
1961年10月 6日  40kt    40.0km
1961年10月27日 1.2kt   300.0km
1961年10月27日 1.2kt   150.0km
1962年10月22日 300kt   300.0km
1962年10月28日 300kt   150.0km
1962年11月 1日 300kt    50.0km
 ※ロシア政府は11回の大気圏内・圏外核実験と発表しているが、1回分のデータは不明。核弾頭はいずれも「原子爆弾」としている(文と写真 編集委員・田城明)

(2001年11月25日朝刊掲載)

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