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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <12> 労働者と修養 日本型労務管理の原型生む

 倉橋島東端の人里離れた亀ケ首海岸で、「心の力」を鍛えようと男たちが朝の朗誦(ろうしょう)に励んでいる。呉海軍工廠(こうしょう)が大正10(1921)年7月、職工ら100人を参加させた労務者講習会の一場面。人格向上を掲げた4泊5日の精神修養は、労使協調による業務励行が狙いだった。

 寝食を共にした講師陣のキーパーソンは、労使関係の改善を図る協調会の田沢義鋪(よしはる)常務理事。天幕下講習で農村青年団員に慕われた異色の元内務官僚で、「人生と社会と国家」と題して熱弁を振るった。

 米騒動の後、広島県でも職人や芸妓(げいぎ)がストライキに入るなど全国で労働争議が頻発した。経済界の渋沢栄一らが大正8(19)年、原敬(たかし)内閣の支援で協調会を設立。人づくりを通じて労使協調に資する精神修養の講習会に力を注いだ。

 田沢流の修養は「真に生きがいのある一生を送り得る自分を作り上げる」ことだった。「無頼の徒」が講習後は模範労働者に生まれ変わるほどの人格的影響を与える。田沢は皇室を全国民のよりどころに据え、平和的な道義国家づくりを唱えた。

 一方、呉海軍工廠は好況時に人材難に陥るなど、労働組合の芽を摘む弾圧一辺倒の労務対策が限界にきていた。労使協調への転換の試みが亀ケ首の労務者講習会だった。

 それに先立つ大正9(20)年6月には工廠当局と職工の協議会を設けた。職工たちの期待はしかし、当局主導の運営で裏切られる。

 大正13(24)年3月に組合員2万人の呉官業労働海工会が誕生した。国際労働機関(ILO)への代表派遣問題を契機に当局が結成させた組合である。労使が協調して待遇改善を図り、人員整理への抵抗など当局が危険視する職場闘争は避けた。

 労務者講習会は「思想の善導統一の効果顕著」で佐世保、舞鶴、横須賀工廠でも行い、大正15(26)年に再び呉で実施。昭和に入ると呉工廠は「日本精神」などがテーマの講話会を開き、要約冊子も配った。

 修養主義は勤勉で物言わぬ労働者をつくり出す。工廠当局は持ち家補助制度やスポーツ奨励で組織への忠誠心や帰属意識を高めるよう努めた。日本型労務管理の原型が生まれた。(山城滋)

田沢義鋪
 1885~1944年。佐賀県出身。全国青年団の作業奉仕による明治神宮の造営を主導。日本青年館を大正14年に完成させ、大日本連合青年団の理事長。昭和19年の講演会で「敗戦不可避」と言い残して急死。

(2023年6月27日朝刊掲載)

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