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近代発 見果てぬ民主Ⅶ <13> 政党内閣 経済を優先 協調外交へ転換

 立憲政友会総裁の原敬(たかし)は、一度紹介された人の顔や名前を決して忘れなかったという。

 大正7(1918)年夏の米騒動で長州閥の寺内正毅(まさたけ)内閣が行き詰まる。英国流の議院内閣制なら衆院第1党の政友会に政権が行くところだが、当時は元老が首相指名権を握っていた。原は周到な工作で長州閥元締の山県有朋の関門を通過する。政党嫌いの山県も難局を乗り切るには原の手腕に頼るしかなかった。

 同年9月に陸・海軍、外務大臣以外は政友会員の原内閣が発足。「万機公論ニ決スベシ」の五カ条御誓文から半世紀後、本格的な政党内閣が誕生した。傲岸(ごうがん)とも評された強いリーダーシップを原は発揮する。

 軍備拡張にひた走ってきた藩閥官僚政権と違い、教育、交通、産業の振興を優先した。第1次世界大戦後の世界は武力ではなく、経済力の競争が激化するとの判断に基づく。

 外交面では米英などとの協調路線にかじを切る。中国での権益拡大を狙った北京政府への支援を取りやめ、内政不干渉方針に転換した。満蒙(まんもう)への影響力は確保し続けたが、ロシア革命政権に干渉するシベリア出兵の撤兵方針を決めた。

 政党政治家として原は、軍部による政治介入の抑制に心を砕く。朝鮮、台湾総督や関東州統括の関東長官への文官登用を可能とし、台湾総督、関東長官は文官となる。軍の聖域だった植民地・租借地の統治を内閣のコントロール下に置こうとした。

 軍の大陸発展策を主導した長州閥の田中義一陸軍大臣も情勢変化を踏まえて原に従い、山県の説得にも当たる。ただ、文民統制の強化は軍の抵抗に遭い、後に満州事変を起こす関東軍など現地軍の独走に歯止めをかけることはできなかった。

 当時の衆院構成は政友会42%、憲政会30%、国民党8%など。普通選挙運動が政界を揺さぶっていた。原内閣は大正8(19)年に有権者の所得制限を緩和し、大政党に有利な小選挙区制を導入する。

 政党内閣の下でも藩閥官僚派を率いる山県は枢密院や軍を掌握し、政権を左右する力を持ち続けた。原は貴族院の取り込みを図る一方で、山県との正面衝突は避け、重要案件では必ず事前に了解を得た。

 こうした権力の二重構造は、議会による「公論」政治の妨げとなった。一方で、大陸への膨張を抑制する国際協調路線は後の政党内閣に引き継がれていく。(山城滋)

原敬
 1856~1921年。盛岡藩の上級藩士家出身。新聞記者、外交官などを経て、大正3年政友会総裁、同7年に爵位のない衆院議員で総理大臣になり「平民首相」と呼ばれた。本人は清廉でも政治腐敗が進み、同10年に暗殺された。

(2023年6月28日朝刊掲載)

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