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連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 旧ソ連編 <14> チェルノブイリ原発事故(上) 脆弱石棺から強い放射線 障害者認定へ7年裁判

 「ここらはもう強制疎開区域。廃屋があちこちに見えるでしょう」

 元チェルノブイリ原発職員のセルゲイ・グラボフスキーさん(49)は、道路の両側に目立ち始めた主のいない民家に目をやりながら運転席から言った。

 ウクライナの首都キエフ市から北へ百キロ余り。ポプラやマツ並木がときおり途切れるその向こうに、十五年余耕されることのない荒れ果てた農地が広がっていた。

 最初の検問を通過してしばらく走る。チェルノブイリ原発から半径三十キロ圏内は、放射能汚染のために今も立ち入り禁止区域である。その手前の非常事態省管轄の役所で、あらかじめ申し込んでいた原発視察の許可証を発行してもらう。

 「立ち入り禁止区域へ入るのは、バスツアーで事故当時住んでいたプリピャチ市を五年前に訪ねて以来だよ。ここへ来ると、否(いや)が応でもあの日のことを思い出してしまう」。グラボフスキーさんは、感慨をこめて言った。

 一九八六年四月二十六日午前一時二十三分。化学担当班の一人として当直勤務に就いていた彼は、史上最悪の原発事故を起こした四号機と建屋がつながる三号機の間の作業室にいた。

 大きな音。揺れる壁や配管。吹き飛んでしまった屋根。原子炉事故と知って避難したそのときには、すでに吐き気に襲われ、戻ったプリピャチのアパートで夕方には吐血した。

 翌二十七日、「急性放射線障害」と診断され、その日のうちにモスクワの第六病院へ。結果を知らされぬまま、検査ばかりが続いた一カ月半の入院生活。その間に死んでいった原発職員や消防士たち…。不安を抱えて退院したそのときの診断書には「事実上健康」と記されていた。

 被曝(ばく)による障害者認定獲得までに要した苦しい七年間の裁判闘争。今も消えることのない背骨の痛み。ときどき襲われる激しい頭痛や全身の脱力感。肺に残ったままの微量の放射性物質。相次ぐ同僚たちの死…。

 事故後の人生で、グラボフスキーさんが一番強く意識するのは「不安」だという。自身や妻、二人の子どもの健康だけではない。厳しさを増す国の経済状況の中で、これからも同じ額の障害者手当が支給されるのだろうか…。鎌(かま)首をもたげようとする不安を封印するために、彼は持ち前の強い意思で不断の闘いを続けていた。

 「到着したよ。一番向こうの端の煙突の見える建物が四号機だ」。グラボフスキーさんは、彼の人生を大きく変えた「石棺」を見つめながら、正面玄関近くに車を止めた。

 庭先に今も立ついかめしいレーニン像。その像に見つめられながら玄関を入ると、チェルノブイリ原発全体の模型がある部屋へ通される。

 「チェルノブイリでは、七七年に一号機が稼働し、八三年の四号機まで順調に建設が続いた。出力調整作業中に起きた八六年の原子炉溶融事故さえなければ、五号機、六号機も完成し、世界で最も大きな発電量を誇る原発になるはずだった」。広報担当のイーゴリ・スタラボイトフさん(30)は、淡々と言った。

 しかし、事故のために五、六号機の建設は途中で断念。事故からほぼ半年後に運転を再開した一、二号機のうち、九一年に機械室で大規模火災が発生した二号機はそれ以降運転を停止。一号機も、先進七カ国(G7)との合意に基づき、九六年に発電を中止した。

 最後に残った三号機。八七年十二月の再稼働以来、ウクライナ政府は「電力不足」を理由に発電を続けてきた。が、G7などからの強い圧力を前に、二〇〇〇年十二月にストップした。

 「今はチェルノブイリ原発での発電量はゼロ。約五千五百人いる原発職員の多くは、再教育を受けながらウクライナ初の原発解体に向けて準備に当たっている。むろん、ここでの最優先課題は、老朽化した四号機の石棺の安全を確保し、放射能汚染事故の再発を防止することだ」

 スタラボイトフさんはそう言うと、防護措置なしで「許容」される四号機に一番近い建物へと車で連れて行ってくれた。

 オフィスビルからは約一キロ。途中、四号機に最も接近した所で約百メートル。持参の放射線測定器が「ピ・ピ・ピ…」とけたたましく鳴った。毎時〇・一一ミリ(百十マイクロ)シーベルトを指している。広島で浴びる自然放射線レベル(毎時約〇・〇八マイクロシーベルト)の約千四百倍。十時間そこにいるだけで、一般人の年間線量限度(一ミリシーベルト)を超えてしまう。

 数分で到着した建物は、四号機から約二百五十メートルの距離にある。二階のバルコニーで測定した値は毎時〇・〇二六ミリシーベルト。先ほどの約四分の一に減少していたが、警報音は相変わらず強かった。

 「この建物や周辺の土壌は除染している。いま検出している放射線は、ほとんど石棺内部に残った放射性物質から出るガンマ線だ」

 石棺内部の展示室のようになった二階の一室。その同じ階にオフィスを構える石棺担当広報職員のセミョーン・シュティンさん(42)が説明してくれた。

 「石棺の隙(すき)間からは、セシウム137などの微粒子が飛び出している。逆にその隙間からは、雨や雪で内部に水が入り込み、年々その量が多くなっているのも事実だ」

 水たまりは、少ない所で深さ〇・五メートル、多い所だと五・九メートルにもなるという。二〇〇〇年にポンプで汲み出した放射性廃液の量は、二千九百三十立方メートルにも達した。

 シュティンさんの説明を聞きながら、チェルノブイリ原発訪問前に、キエフ市内の被災者救援グループ「ゼムリャキ(同郷の人びと)」で会ったバレンティン・ゴロビノフさん(62)の話を思い浮かべた。原発建設の専門家として事故後の石棺造りに参加。九七年の退職前の五年間、石棺の安全管理監督主任を務めた彼は、だれよりも石棺の脆(もろ)さを知っていた。

 「石棺建設当時は、放射線量が非常に高くて近づいて作業することができなかった。そのために建設材料は一切ボルトや溶接で止めていない。クレーンで積み上げただけだ」

 石棺の高さは七十メートル、幅百九十メートル。原子炉を格納していた蓋(ふた)は吹き飛んで落下。その上方に長さ八十メートル、重さ二百八十トンの巨大な梁(はり)を二本渡し、その上に三十六メートルのパイプを幾つも並べて屋根を覆う基礎とした。

 「ところがね、その梁を支える支柱が重さで十一センチ傾いたために、梁の方が元の位置より七十センチもずれてしまった。支柱がさらに傾いて、マンモス梁が落下するようなことになれば、石棺内部の放射性物質がチリとなって大気へ舞い上がり、再び惨事を引き起こしてしまう。早急に防護対策を立てないと…」

 自らも相当量被曝しながら作成した石棺内部の断面図。それを示しながら説明するゴロビノフさんの表情には、抜本的な防護対策がなかなか取られないことへの苛(いら)立ちさえうかがえた。

 バルコニーから望遠レンズでのぞくと、隙間があちこちに見える。素人目にも、脆(ぜい)弱に映る石棺…。  シュティンさんによると、第二の石棺造りの計画がヨーロッパで進んでいるという。「現在、三つのプランが入札にかけられている。近い将来、決定が下されて、二〇〇五年までには工事が完了するだろう」

 だが、すべてを外国支援に頼るなかで計画通りに進むかどうか、確かな見通しは立っていない。

 原発視察後、北西に約四キロ離れたかつての原発職員の町、プリピャチを訪ねた。グラボフスキーさんの家族をはじめ約五万人が住んでいた新しい町は、一夜にして人のいないゴーストタウンに化してしまった。雑草が生い茂り、にぎわった劇場もホテルもマーケットも、荒廃が支配していた。

 「建設者通り 22番地」。九階建てのアパートの側壁にかすかに残るグラボフスキーさん一家が住んでいたアパートの住所。三階にある彼の部屋に入ると、破れた壁紙や雑誌、子どもの靴に交じって、グラボフスキーさん手製の楽譜が床に落ちていた。

 「イタリア民謡の『サンタルチア』とかビートルズナンバーの『ハード・デイズ・ナイト』まであるよ」

 厚遇の魅力に引かれて八〇年に転職するまでは、音楽学校の先生だったグラボフスキーさん。手にした楽譜を見つめるその目に、うっすらと光るものがあった。  (文と写真 編集委員・田城明)

(2001年12月16日朝刊掲載)

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