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連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 アメリカ編 <16> ロスアラモス国立研究所(上) 病める原爆誕生の地 しわ寄せは先住民に

 人口六万人のニューメキシコ州の州都サンタフェから北西へ車で約六十キロ。第二次世界大戦中の米原爆開発「マンハッタン計画」の中枢を担ったロスアラモス国立研究所は、標高約二、二五〇メートルの険しい大自然に囲まれてあった。

 「メサ(岩石の丘)とキャニオン(渓谷)からなる約百十平方キロの敷地に、研究施設や実験場、放射性廃棄物投棄所などが散らばってある。大戦中は、このリオグランデ川が境界だったの。特別な許可がないと、橋を渡って外の世界と接触することは禁じられていた」

 同行のジョニー・アレンズさん(46)は、そう言うと橋のたもとに車を止め、道端に残る雪上で放射線量を測定した。そこからさらに金網を越え、河原へと下りていった。

 弁護士の彼女は、一九八八年にサンタフェを拠点に仲間とともに非政府組織「核の安全に関心を寄せる市民」を立ち上げ、以来同研究所の汚染問題などの監視を続ける。

 「ここの放射線量は毎時三十マイクロレントゲン。この辺りの自然放射線量の約一・五倍ね」。河原の堆(たい)積土に放射線測定器をかざしたアレンズさんは言った。「砂と粘土が混じった細かい粒子の河原の土は、先住民たちがつぼなどを作る際の原料になる。たとえわずかでも放射性物質が含まれたりすると困るのよ」

 リオグランデ川は、コロラド州からニューメキシコ、テキサス州、メキシコを流れてメキシコ湾に注ぐ中西部の主要河川である。農作物や牧畜など流域一帯で農業水に利用されている。

 ロスアラモス研究所に近い下流の堆積土などからは、プルトニウムやアメリシウム、セシウム、ストロンチウムなどの放射性物質が検出されているという。

 「四三年から現在に至るまでの約六十年間、核開発に伴って放射性物質や他の有害物質をキャニオンに投棄したり、メサに埋めたりしてきた。それらが地表や地下を伝って川へ流れ込んだり、地下水を汚染しても不思議ではない」とアレンズさん。

 再びハンドルを握った彼女は、まるで自然の砦(とりで)のような地形につくられた坂道を走り、点在する施設に近づいた。各施設は厳重な警戒下にあった。が、敷地内の主要道路は公道になっており、一般車両も通行できた。

 「ほら、このメサの上に白い大きなテントの上部が見えるでしょう。あの中に放射性廃棄物が保管されているの。一帯は『エリアG』と呼ばれる、五〇年代からの放射性廃棄物などの処分地よ」

 アレンズさんによると、「エリアG」には数多くの深く掘った穴(シャフト)や浅い溝があり、それらに放射性廃棄物が捨てられてきた。穴や溝にはどれもコンクリートなどでの防護措置はなく、上部も土をかぶせた程度。低レベルの放射性物質の処理場とされているが、中には中・高レベルのプルトニウム汚染物質なども含まれているという。

 「今でも毎年、五十五ガロン(約二百八リットル)入りのドラム缶にして四万から五万本分の放射性廃棄物が持ち込まれている。ほとんど核開発から生み出されるものよ」。アレンズさんはゆっくりと車を走らせながら、説明を続けた。

 道路左側に連なる山々の木々は、二〇〇〇年五月に起きた大火災で燃え、すっかり黒ずんでいた。国立公園管理の作業員が下草を焼くためにつけた火が、折からの強風で燃え広がり、約百九十平方キロを焼失。ロスアラモス研究所の敷地の約三分の一も焼けた。

 「従業員の住宅が二百棟以上焼失したり、核関連施設も一部が焼けるなどの被害を受けた。サンタフェを含め公衆への影響は、火災の際に地表にあったり、木などの植物に含まれる放射性物質や他の有害物質が、煙と一緒に大気中に舞い上がり、周辺に降り注いだことよ」

 アレンズさんのガイドを受けた翌日、ロスアラモス研究所のリー・マカティー環境・安全・保健担当副部長に会うため、今度は一人で現地へ向かった。約束の場である町のほぼ中心部の科学資料館。待つ間、資料館を見学した。

 そこには、第二次大戦中、マンハッタン計画を指揮したレスリー・グローブス将軍や、研究所長だったロバート・オッペンハイマー博士のいかめしい塑像が並べられていた。広島・長崎への原爆投下が、民間人と軍人の多数の命を救ったとの説明展示もされている。

 人類史上初の原爆開発の拠点となり、今もその地位を維持するロスアラモス研究所は、資料館を通じ自らその歴史を誇示しているようであった。

 「広島の新聞社ですか?」。時間どおりに現れたマカティーさんは、差し出した名刺を見つめながらつぶやき、資料館二階の会議室へと向かった。

 「連邦政府の環境規制が始まったのは七〇年代に入ってから。八〇年代以後は、研究所に隣接する先住民居留地の権利保護も大幅に拡大されたが、今は規制よりも進んだ環境対策を立てている」

 ひげをたくわえたマカティーさんは、自信に満ちて言った。そしてあらかじめこちらの機先を制するように付け加えた。「七〇年代以前の活動による環境汚染を現在の基準で断じるのは、アンフェアというものでしょう」

 ロスアラモス研究所の敷地内には、核開発に伴って生まれた放射性廃棄物などの投棄場所が二千百十四カ所に上るという。このうち、約千八百カ所をこれまでに調査し、「エリアG」などを含め四百カ所に汚染物質があることが判明した。

 水爆の材料に使われる劣化ウラン約一トンをはじめ、重金属の鉛、ベリリウムなどが地表に残る高爆薬実験場。ストロンチウム90、プルトニウム239、セシウム137など半減期の長い放射性物質が検出されているキャニオン…。

 「ほんのわずかだが放射性物質が敷地外で見つかっているのは事実だ。でも、それが問題になるのは、人体への被曝(ばく)線量。その点で言えば、まったく問題になる値ではない」

 現在の国際基準では、一般人の年間被曝線量限度は一ミリシーベルト(〇・一レム)である。「研究所では問題になる人体への被曝線量をどの程度と考えているのか?」

 こう尋ねると、「年間百レム(一シーベルト)以上ならがんの発症率が2―3%増えることは専門家の間で認識が一致している。十レム(〇・一シーベルト)では影響があるかどうか議論が分かれ、それ以下なら議論の対象にもならない」と言ってのけた。

 国際基準の約百倍を浴びても問題にならないと言うのである。アメリカ国内では、わずかな検診用エックス線の照射レベルでさえ「現行より下げるべきである」との専門家の意見がある中で、随分と乱暴な議論ではあった。

 後日、米国各地を取材中、首都のワシントンで、「エリアG」と隣り合わせのサン・イルデフォンソ居留地に住むギルバート・サンチェスさん(56)に出会った。

 「先住民環境監視同盟」の代表として、全米から集まった先住民らの環境会議に出席中の彼に、マカティーさんとのインタビューの内容を伝えると、言下に「でたらめばっかり言っている」と、厳しい口調で批判した。

 「サン・イルデフォンソでは、シカやエルクなどが汚染されて九五年から狩猟が禁止されている。居留地の汚染された池の水を飲んだり、草を食べるからだ。木の実の採集も禁じられている」

 サン・イルデフォンソ居留民の人口は約千人。ぜんそくなど気管支を患う住民が多く、二〇〇〇年には五歳以下の幼児二人が白血病になった。

 「われわれは放射性廃棄物処理場の影響だとみている。しかし、ロスアラモス研究所は『裏付けるデータがない』『先住民の独自の環境調査は科学的ではない』と取り合わない。残念だけど、最近は長老たちも抗議をしないんだ」

 サンタフェ滞在中にサン・イルデフォンソの「ガバナー」に取材を申し入れたが、実現しなかった。なぜ抗議をしないのか? サンチェスさんはその理由について言葉を濁した。

 「相手は絶大な権力と金を持っている。なぜ当局の言いなりになってしまうのか。私が言及しなくても想像できるでしょう」

 鋭いサンチェスさんの目に、一瞬、悲しみが浮かんだ。そこにはアメリカ社会で長年、虐げられてきた先住民の苦渋がにじんでいた。

ロスアラモス国立研究所
 1942年、フランクリン・ルーズベルト大統領による「マンハッタン計画」決定後、「機密保持」「水の確保」などに適しているとして、ニューメキシコ州北部の辺境の山地が選ばれる。当時、33世帯、約200人のヒスパニック系入植者が農業を営んでいたが、一日で強制移住させられた。

 43年には研究所の施設建設が始まり、所長に就任したオッペンハイマー博士もカリフォルニア大学バークリー校から移り住んだ。45年7月16日の人類初の原爆実験は、他の施設で製造したプルトニウム239をロスアラモスへ運んで爆弾に組み立て、特殊車両で同州の実験地「トリニティ・サイト」へ運んで実現した。

 第2次大戦後は、旧ソ連との冷戦下、新たな核開発研究の拠点施設の役割を果たし続ける。冷戦後も既存の核兵器の維持管理とともに、新兵器の開発などに取り組んでいる。管理・運営主体はカリフォルニア大学。科学者ら労働人口は約1万2000人。(文と写真 編集委員・田城明)

 <資料提供=ロスアラモス研究所>

(2002年1月27日朝刊掲載)

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