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連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 アメリカ編 <22> オークリッジ核施設(上) 病で知る国家の「裏切り」 劣悪な環境、労働者犠牲

 米南東部テネシー州の州都ナッシュビル市から東へ車で約四時間。アパラチア山脈にほど近い丘陵地に姿を隠すようにオークリッジ核施設は点在していた。

 第二次世界大戦中の「マンハッタン計画」で建設されたロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ州)ハンフォード核施設(ワシントン州)と並ぶ三大拠点施設の一つである。

 「この巨大な建物がK-25だよ。ガス分離方式で濃縮ウラン235を取り出してきた。広島に投下された原爆のウランはここの工場でつくられたものだ」

 元オークリッジ核施設警備員のハリー・ウイリアムズさん(56)は、小高い丘に止めた車から降りると、灰色にくすんだビルを見つめて言った。

 工場の建設が始まったのは一九四三年。科学者や技術者をはじめ、最盛期には二万五千人以上の労働力を動員し、大戦も末期に近づいた四五年の初頭に完成した。

 「工場の大きさは四十四エーカー(約〇・一八平方キロ)もある。天然ウランに含まれる高レベル放射性同位元素のウラン235は1%にも満たない。それを分離し、原子爆弾に必要な高濃縮ウランを抽出するためのガス分離機の長さは一マイル(一・六キロ)以上。むろん、当時として世界最大規模の工場だった」

 空軍警備隊員として六〇年代末から四年間ベトナム戦争に参戦。除隊後、生まれ故郷のオークリッジに隣接するノックスビル市に戻ったウイリアムズさんは、七六年から二十年間、警備員としてK-25をはじめ、核施設すべての警備に当たってきた。

 K-25は、オークリッジ核施設の中で最も古い工場の一つである。しかし「K-25サイト」と呼ばれる同じ敷地内には、K-29、K-31、K-33など後からできたガス分離方式のウラン濃縮工場や、K-1037というニッケル工場などがあった。

 「この敷地内の工場での生産は、八七年までにすべてストップしたが、放射性物質や化学物質でひどく汚染されている。ビルも内部の空気も土壌もね。だが、エネルギー省の役人も契約会社のボスもわれわれには『危険はない』と言い続けてきたんだ…」

 オレンジ色のジャンパーに身を包んだどっしりとした体格のウイリアムズさんは、怒気をにじませながら早口で言った。

 「K-25は七〇年代半ばで生産が中止された。そのほかの工場の一部は、倉庫として民間にただ同然でリースされている。中には重金属やら、わけの分からない汚らわしい化学物質などが保管されているよ」

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 そんな場所へ出入りしては、建物や周辺の警備に当たり、治安を守ってきたウイリアムズさん。喫煙もせず、「健康そのものだった」という彼が心臓発作に襲われたのは、働き始めて十二年後の四十三歳のときだった。

 視覚障害、難聴、気管支障害、糖尿病…。その後、次々と現れる体の異常でやがて働けなくなった彼は、九六年に仕事を辞めざるを得なくなった。今では毎月二千ドル(約二十四万円)の「疾病・障害者年金」の受給で、家族五人を支える。

 「働いていたときの半分の収入だよ。それより何より、健康を失うことで暮らしの質は台無しさ。それもこれも、労働者の安全を守ろうともしない『ならず者』のエネルギー省のせいだ」

 とき折苦しそうに咳(せ)き込むウイリアムズさんは、米国政府がイラクなどに対して使う「ならず者」という言葉を自国政府に向かって浴びせた。

 南部の保守的な環境の中で、「骨の髄まで」愛国主義者として育った。「共産主義との戦い」だったベトナム戦争にも何の疑問も抱かなかった。核施設での仕事にも「国家のために役立っている」との自負があったという。

 「でも、信じていたその国家に裏切られたんだ。自分だけじゃない。核施設で働いていたどれほど多くの労働者が放射線による被曝(ばく)や重金属物質などで健康な体を奪われたか。自国民に犯罪行為を行う国家を許せない」。ウイリアムズさんは語気を強めた。

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 彼の案内でK-25サイトなどを巡った翌日、ノックスビルの外れの森と湖に囲まれた美しい自然の中で暮らすジャネット・ミッシェルさん(50)を訪ねた。

 「排出ガスなどが多いと、すぐ気分が悪くなってね。だからこんな田舎に引っ込んでいるのよ」

 玄関先で迎えてくれた元オークリッジ核施設従業員の彼女は、そう言いながら居間のソファに腰を下ろした。家族はコンピューター技術者の夫(59)と、犬と猫が一匹ずつ。治療によって体内に取り込んだ毒性の強いニッケルや水銀を少しずつ体外へ取り出すことで、以前よりもかなり体力を回復したという。

 父親は化学技術者として四四年からオークリッジ核施設へ。K-25サイトの研究室などで働いたのち、十キロ近く離れたオークリッジ国立研究所へ移り、さまざまな研究に従事。が、八六年に六十四歳で心臓発作で亡くなった。

 「今から思うと、父親も化学物質の影響などを受けていたのかもしれない。でも、私は自分が病気になるまで汚染のことをあまり気にとめていなかった」と打ち明ける。

 オークリッジ市で生まれ育ち、大学卒業後は地元の中学で科学を教えたり、コンサルタント会社などに勤務。九〇年からはエネルギー省との契約で、オークリッジ核施設を運営する企業の「汚染防止プロジェクト・マネジャー」として六年間働いた。

 「そのうち一年半は、K-25サイトのニッケルやベリリウムを製造していた工場をオフィス代わりに使わなければならなかった。経費節減が目的。しかしそこで働いているうちに、床やら天井やらに残ったニッケルなどの粉末を体内に吸い込んでいたの…」

 休日には地域の子どもたちにカヤックやカヌーの指導をしていた健康な体は徐々にむしばまれ、すぐ疲労を覚えるようになった。九六年には一年の三分の一を治療などで休み、翌年には長期治療の病気休暇も認められず、職場復帰は果たせなかった。

 九九年の尿検査では、通常値の二十六倍ものニッケルが検出された。全身の痛み、慢性疲労、頭痛、太陽光線に過敏に反応する肌…。

 「契約会社の上司には、父親が家のパーティーに招いたり、教会で会う人もいた。そんな人たちが、私たちを汚染された場所で働かせるなんて思ってもいなかった」。ミッシェルさんの心から、今も会社やエネルギー省に裏切られたとの思いは消えない。

 外出の少なくなった彼女の少ない楽しみは、庭の手入れや森の散歩である。

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 ミッシェルさんと別れたその夜、ノックスビルの西端にあるコミュニティー・カレッジで開かれた「健康な環境を求める連盟」の集いに出かけた。オークリッジ核施設で働いていて病気になった現役や退職者らが九五年に、補償などを求めてつくったものだ。中心メンバーは約五十人。集いには会長のウイリアムズさんら約二十人が集まっていた。

 がんや肺気腫、心臓病や腎臓疾患、甲状腺障害や慢性疲労…。それぞれがさまざまな病気を抱えていた。だが、満足な補償もないまま職を失った人がほとんど。情報交換しながら、互いに支え合っている。

 熱のこもった討議は二時間余続いた。そしてその集いが終わろうとするとき、ウイリアムズさんは胸のつかえを吐き出すように言った。

 「米国は第二次大戦で広島と長崎を原爆で破壊し、大きな犠牲をもたらした。その見返りに、われわれは核開発プログラムによって病を負い、多くが犠牲になった。今になって日本の原爆被害者の気持ちが分かるような気がするんだ…」

 彼の言葉に、居合わせた多くがうなずいてこたえた。(文と写真 編集委員・田城明)

(2002年3月10日朝刊掲載)

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