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[モノ語り文化遺産] 「センター」のフィルム映写機 戦後復興支えた映画熱

メード・イン・広島 精巧で評判

 「ローマの休日」や「君の名は」が人気を呼んだ1950年代は、映画の黄金期だった。全国に映画館が林立し、フィルム映写機がもてはやされた。その製造は東京や大阪が中心だったが、広島県内でも戦後間もなく製造会社が起こり、高品質のフィルム映写機を世に送った。海田町に工場を構えた中央映機製作所。往年の2台が現存し、広島の戦後復興を支えた映画熱を今に伝える。(木原由維)

 2台は、49年製の35ミリ映写機ヘッドマシンと、53年製の16ミリ映写機。いずれも広島市が所蔵し、市映像文化ライブラリー(中区)のロビーで展示している。ヘッドマシンはフィルムを送り出す装置で、映写機の心臓部に当たる。一方の16ミリ映写機は試作品だ。中央映機製作所は当時、「センター」の商標で映写機を販売していた。

 社長の笹井一美(ひとみ)さん(2004年に85歳で死去)は呉市出身。戦前、広島市内の「ニッセー映写機」に勤め、フィルム映写機の製造技術を習得した。7年余りの兵役を経て、28歳だった1946年に中国から復員。焼け野原の広島に戻り、かつて映画館のあった場所を訪ね回った。後の手記にはこうある。「焼けただれ崩壊せる劇場の映写室を掘り起し、程度の良い映写機械を見つけ、分解、修理、調え、映画が観(み)られるやうに努力、復興に努めたものです」

 翌47年に中央映機製作所を設立。自ら映写機の開発、製造に当たった。映画人気とともに事業は拡大し、50人ほどの従業員を抱えた。広島県内ばかりでなく、山口県の光市、下関市、周防大島町のほか、九州各地へも販売。大阪では戦時中の空襲で損傷した映写機の修理も請け負った。

 「製造したそばから飛ぶように売れた」。中学卒業直後から約10年間、中央映機製作所で働いた谷勇男さん(85)=安芸区=は振り返る。谷さんたち従業員は早朝に工場に出勤し、映画館に映写機を搬入する未明まで働いた。注文が入ると自らトラックのハンドルを握って映画館に出向き、数人がかりで重さ数百キロの映写機を運び入れた。

 「センター」の性能は東京や大阪の同業者に引けを取らなかった。精巧な技術の一端が、スプロケットと呼ばれる部品からうかがえる。フィルムを円滑に回すための歯車で、一つ一つは手のひらに乗るほど小さい。笹井さんは映写機にとって最も大事な部品と捉え、削る部分や厚みまで細かく指定。開発競争が激化する中、映画館の支配人たちから「丈夫で劣化しにくい」と評判だった。

 広島市中心部で映画館「八丁座」「サロンシネマ」を運営する序破急社長の蔵本順子さん(72)の手元に、その一つが残る。笹井さんが亡くなる直前、「蔵本のおやじに持っていてほしい」と託した。おやじとは、蔵本さんの父で先代社長の登さん(99年に74歳で死去)。映画館に出入りしていた笹井さんと、映画談議に花を咲かせ意気投合していたという。

 50年代終わりごろからのテレビの普及で映画人気は陰りをみせ、街中の映画館も姿を消していく。中央映機製作所は60年に映写機の生産を中止し、その後、廃業した。

 笹井さんの死後、残されたフィルム映写機2台は妻登美子さん(98)=南区=が自宅で保管。映写技師の資格を持つ市民らが、残存する部品を組み合わせて再生させた。八丁座映画図書館(中区、2016年閉館)を経て17年4月、次女の藤村満恵さんが市映像文化ライブラリーに寄贈した。「映画館を支えるため奮闘した父の思いが詰まっている。銀幕の世界に魅了され、励まされた広島の人々の熱気を感じ取ってもらいたい」。藤村さんは願う。

広島市内 ピーク時は52館

 広島市内で映画の公開が始まったのは1897年4月だった。現中区小網町にあった芝居小屋で、無声映画の興行があった。芸備日日新聞(後に中国新聞と合併)は「初日早々、意外の大人気を博し、遅れて至るものは謝絶する位の有様(ありさま)」と盛況ぶりを報道。同年2月の大阪での日本初興行から2カ月後のことだった。

 無声映画がトーキーへ進化する中、全国の繁華街を中心に映画館が急増。1945年4月当時、広島市内は17館を数えた。8月6日の原爆投下後、唯一焼け残った宇品地区の港劇場は、11月に阪東妻三郎主演の「無法松の一生」をいち早く上映。街の復興とともに映画館も息を吹き返し、46年に10館、59年のピーク時に52館が軒を連ねた。

 映画情報サイト「シネマッド」を運営する中野良彦さん(72)=中区=は70年ごろ、アルバイトをしていた市内の映画館「広島スカラ座」で、先輩技師から映写の手ほどきを受けた。音量は作品のジャンルごとに微調整。揺れ動くピント位置も常に目配りする。「機械任せにせず、自身の感覚で操作する技師の姿に目を奪われた」

 97年以降、シネコンの進出で街中の小規模映画館は次々に灯を消した。2000年、デジタル化の波が押し寄せ、従来の35ミリフィルム映写機は表舞台から去った。市内でフィルムを上映する映画館は市映像文化ライブラリーのみとなった。

(2023年6月30日朝刊掲載)

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