×

連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 アメリカ編 <24> ロッキーフラッツ核施設 解体・除染 道のり遠く 危険な作業 経費も莫大

 ロッキー山脈の東方に位置するコロラド州の州都デンバー市から北西へ二十五キロ。雄大な景観が広がる標高約千八百メートルの平原で、史上初の試みが続けられていた。大規模な核兵器工場の解体と、放射性物質などで汚染された敷地内外の土壌や地下水を除染し、元の自然を復元しようとの取り組みである。

 「取材ノートはいいけど、カメラやテープレコーダーの持ち込みは禁止です」

 エネルギー省との契約でこの事業に当たるカイザーヒル社広報担当のジェニファー・トンプソンさん(34)は、いかめしい口調で言った。「ようこそロッキーフラッツへ」のサインを掲げた西ゲート横の駐車場。銃を腰にした屈強な警備員から厳重な身体検査を受けた後、ようやく敷地内に足を踏み入れることができた。

 「ロッキーフラッツでは、一九五二年の稼働から八九年まで、ハンフォード核施設などから搬入されたプルトニウムを加工して、主に水爆の起爆装置のプルトニウム・ピットを生産してきた。でも、今は二〇〇六年末を目標にすべての施設の解体、除染作業に取り組んでいる」

 大型ワゴン車をゆっくりと走らせながら、トンプソンさんは説明を始めた。

 敷地面積二十四平方キロ。うち生産工場などがある「産業ゾーン」は約一・六平方キロ。その中に大小百以上の建築物がある。

 「最大の課題は、北側に集中している主要な五つのプルトニウム工場をどう安全に解体するか。私たちはすでに三年がかりで、プルトニウムの研究開発などに利用してきた『779ビル』を取り壊した。残りの施設もできると確信している」

 敷地内のほぼ中央を走る道路の北側は「保護ゾーン」として一段と厳しい警備が敷かれていた。数カ所に設けられた監視塔。三重の有刺鉄線。とき折、警備員たちが敷地内の「緩衝地帯」で射撃訓練をする乾いた音が青空に響く。完全な防護服や防護マスクを必要とするプルトニウム関連工場内の視察許可は下りなかった。

 「工場内にあった高濃縮プルトニウムやウランの多くは、すでにパンテックス核施設(テキサス州)やロスアラモス国立研究所(ニューメキシコ州)サバンナ・リバー・サイト核施設(サウスカロライナ州)などに搬出した。が、工場内にはまだ多くの核物質が残っていて危険」とトンプソンさん。

 米ソの核軍拡競争が激化した五〇年代以後、常に生産が優先された工場内は、機械設備だけでなく、床や天井までもプルトニウムやウラン、ベリリウムなどで汚染されていた。

 最初に完成した「771ビル」で起きた五七年の火災。その後の生産拠点となった「776・777ビル」で発生した六九年の火災。いずれもプルトニウムの自然発火が原因である。二度の大火災とも、風下に当たるデンバー周辺にまでプルトニウムが放出されたとされる。だが、いまだに放出量などの実態は明らかにされていない。

 それ以外にも小さな火災や放射能漏れ事故は頻繁に起きていた。その都度、除染作業が繰り返され、操業を続けてきた。が、八九年六月には連邦捜査局(FBI)が「環境違反容疑」で強制立ち入り捜査をする異例の事態に。そして、その年の十二月には操業停止に追い込まれた。

 「九〇、九一年と他の契約会社が再操業を目指して修復作業を続けた。でも、九二年の一般教書演説でブッシュ元大統領がトライデント型ミサイル用の核弾頭生産中止を発表した時点で、ロッキーフラッツの閉鎖が決定的になった」

 トンプソンさんによると、その後にエネルギー省と契約を交わしたカイザーヒル社が、施設の解体と除染作業を請け負うことになったという。〇六年末の作業完了目標までにかかる年間費用は約六億五千万ドル(約七百八十億円)。一日二億円強である。うち、ほぼ半分はテロ防止などのための警備費用に充てられている。

 「作業が随分遅れていると聞いていますが…」。こう尋ねると、トンプソンさんは「わずか一年ほどの遅れ。まだ十分取り戻せる」と強い自信を示した。

 車で敷地内を走るだけでは、解体作業に伴う危険などは見えてこない。核施設という「巨大な象」の足をなでただけの視察に消化不良を覚えながら、デンバー郊外のウエストミンスター市に住む元従業員のジム・ケリーさん(68)を訪ねた。

 「二〇〇六年までの作業完了? 可能性はゼロだね。もう少し年月がたてば『もう五年、もう十年』というようになる。〇六年というのは、そうしないと議会が予算を認めないからだ」。トンプソンさんとの会話の内容を伝えると、ケリーさんは悪い冗談でも聞くように一笑に付した。

 ワイオミング州の小さな炭鉱町で育ち、高校卒業後四年間の海軍兵役を経て、五六年に兄の働くロッキーフラッツ核施設に職を求めた。九五年に退職するまでの四十年近い勤務のうち二十七年間は、放射線防護を担当。特にプルトニウム・ピットなどを造る工場の放射線レベルを測定してきた。

 「五七年と六九年の火災では、当時の労働者が身の危険を冒してブラシなどで除染に当たった。六九年のときは二年間、二十四時間態勢での除染作業だった。それでも完全に取り除けたわけではない。完全防護姿でも、場所によっては一時間以内で作業員を交代させなければならない。危険な作業だけに、床や壁、天井は何度ペンキを塗り替えたことか…。これらのビルの解体は容易ではない」

 九四年、当時のエネルギー省のヘイゼル・オレアリー長官は、ロッキーフラッツのプルトニウムの残量について「千百九十一キログラムの誤差がある」と発表した。三~五キログラムのプルトニウム・ピットに換算してほぼ四百個~二百四十個にも相当する。

 「配管の長さだけでも五十マイル(八十キロ)以上あるんだ。その配管の中にどれだけのプルトニウムが残っているかだれにも分からない」とケリーさんは指摘する。

 労働組合の委員長を十七年余務めた彼は、常に契約企業の経営者に安全措置を求めてきた。だが、利益のみを追求する経営者らに主張は通じなかったと述懐する。今では彼自身、前立腺がんと皮膚がんに侵され、手術を受ける身である。

 「特に操業当初から七五年まで続いたダウ・ケミカル社はひどかった。プルトニウムなどで汚染された廃液をドラム缶に詰めて戸外に放置し、穴があいて地下に浸透していても対策を立てようともしない。溝にも捨てる。その結果、地下水や近くの湖まで汚染してしまった」

 解体作業や除染作業の困難さを指摘するのはケリーさんだけではない。核施設の北十二キロに位置するボールダー市に拠点を置く市民組織「ロッキー山平和と正義センター」の創設者の一人、リロイ・ムーアさん(70)も、厳しい見方をする。

 「問題は汚染ビルの解体だけではない。ビルの下の土壌には何キロものプルトニウムがあると言われている。エネルギー省とカイザーヒル社が言う土壌の汚染除去は、われわれが要求している基準より約二十倍も高く、完全な除染とはほど遠い」

 神学者のムーアさんは、自宅の書斎で穏やかに言った。七〇年代後半から非暴力主義に徹して反核運動に加わり、ロッキーフラッツ核施設の閉鎖を求めてゲート前で断食を敢行したことも一再ではない。八三年、六人で始めたセンターのメンバーは、今では約千五百人を数えるまでに広がった。

 「核施設の閉鎖は、デンバー都市圏の約二百五十万市民にとっては一歩前進。しかし、広大な汚染大地を核施設ができる前のクリーンな状態に戻すには、計画以上の莫ばく大だいな税金と時間を費やすようになるだろう」

 ムーアさんたちは、住民や作業員を被曝ばくから作業の安全性を守り、厳しい基準で除染作業を進めるように監視の目を強めている。

 が、その一方で彼の失望と憤りは強まるばかりである。八九年以来中止されていたプルトニウム・ピットの生産が、ロスアラモス国立研究所で始まろうとしているからだ。ムーアさんは無念の胸中を吐き出すように言った。

 「わが政府は核開発によってどこまで環境を汚染し、新たなヒバクシャをつくろうとしているのか。軍部や政治指導者をはじめ、アメリカ人の多くはまだ、核開発の負の歴史から何一つ学んでいない…」(文と写真 編集委員・田城明)

《ロッキーフラッツ核施設》
 1950年、トルーマン大統領が水爆開発にゴーサインを出したのを受け、水爆の核融合を引き起こすのに必要な「起爆装置」としてのプルトニウム・ピットの大量生産が必要となった。51年にコロラド州デンバー近郊に土地を選定すると同時に建設にかかり、52年4月に稼働した。

 ピットの重さは、古いタイプでは4~5キロ。より進んだ新しい兵器では約3キロ。古くなった弾頭を解体してピットを取り出し、リサイクルで新しいタイプのピットに再利用もした。

 57年と69年の火災で主要なプルトニウム工場が焼け、ビルの汚染とともに大量のプルトニウム汚染物質が生まれた。ほかにも敷地内の溝などに放射性廃液や化学物質などを投棄したため、土壌、地下水、周辺の小川、湖などが汚染された。

 89年に生産を中止。95年に核施設の名称を「ロッキーフラッツ閉鎖プロジェクト」と変更。2006年末には「野生動物保護区」としての土地利用が計画されている。現在の労働力は約5000人。

(2002年3月24日朝刊掲載)

年別アーカイブ