×

連載・特集

[私の道しるべ ヒロシマの先人たち] 明星大教授 竹峰誠一郎さん(46) 被爆者 高橋昭博さん

「一会一生」 対話ひたむき

 米国がかつて67回もの核実験を繰り返した中部太平洋マーシャル諸島に研究者としてたびたび足を運ぶ。核被害に苦しむ住民たちの聞き取り調査を始めて25年。モットーは、一つ一つの出会いを大切に―。原爆資料館(広島市中区)の館長も務めた被爆者・高橋昭博さん(2011年80歳で死去)から学んだことだ。

 高橋さんと交流が始まったのは20年ほど前。日本被団協(東京)が会報で企画した被爆者と若者の「紙上交流」がきっかけだった。高橋さんは「原爆投下は米国によるテロ行為」と断じながら、世界の貧困や人権抑圧、地球温暖化などの問題に触れ、若者へメッセージをつづっていた。ヒロシマを原点に「もっと大きく目を開いて世界を見つめてほしい」―。そんな言葉が「大学院生としてマーシャルの研究を始めたばかりの私の心に響いた」。

 その年の8月6日、広島を訪れ、高橋さんと対面。直接話をし、「ヒロシマを地球規模の問題として語る視野の広い人だ」とあらためて感じた。その後も広島を訪れるたびに会い、妻の史絵さん(86)とも親交を深める中で、高橋さんの凄絶(せいぜつ)な半生を知った。

 高橋さんは14歳の時、爆心地から約1・4キロの旧制広島市立中(現基町高)の校庭で被爆。頭から足まで大やけどを負い、死の淵をさまよった。一命を取り留めても、右手の指やひじは曲がったまま。就職差別にも遭った。何とか市役所に職を得た後も周囲の偏見や健康不安など苦労は続いた。同じような境遇の人たちと悩みを分かち合いたいと訪ねたのが、当時「原爆一号」と呼ばれ、初期の被爆者組織を率いた吉川清さん。被爆者運動や原水禁運動に加わった。

 だがやがて、党略や建前が横行する「運動」に嫌気が差し距離を置く。自分の思いを貫くあまり、仲間とぶつかることも多かったようだ。「1人でもできる平和運動を」と次世代への証言活動に注力するように。市役所の元同僚で画家の四国五郎さんの協力を得て被爆体験を絵本「ヒロシマのおとうさん」に著すなど、得意とする文筆での発信も続けた。

 原爆資料館長時代には、「生き証人」としてローマ教皇ヨハネ・パウロ2世たち著名人を案内することで核兵器の非人道性を世界に伝えた。1980年には米ワシントンでの原爆展に合わせ、広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ氏と面会。「命令があればまた原爆を投下する」と語ったティベッツ氏とも文通を続けた。

 「どんな相手でも分かりあえる部分があるとの信条あってのことでしょう」。とりわけ子や孫ほど年の離れた若い世代と、まめに交流した。実際、高橋さんからは、自身の証言活動や世界情勢などについて思いをつづった手紙が頻繁に届いた。返信でマーシャルでの核被害の研究経過などを報告するといつも励ましの言葉をもらった。「何度も言葉を交わすことで私たち若い世代にヒロシマの心を伝えようとしたのだと思う」

 入退院を繰り返しながら車いすで証言活動を続けた晩年の高橋さんを、そばで見守った。高齢や病を押して証言するのは「ヒロシマナガサキが過去のものではなく、今日の問題であることを認識し、世界に目を向けてもらうため」だと話してくれた。いま世界の核被害者「グローバルヒバクシャ」を研究しながらその言葉の意味を実感している。

 高橋さんが名刺に記すほど大切にしていた言葉がある。「一会一生(いちえいっしょう)」。それを体現した「ヒロシマのおとうさん」の人生を思う。(新山京子)

たけみね・せいいちろう
 兵庫県伊丹市生まれ。早稲田大大学院アジア太平洋研究科で博士号取得。専門は国際社会学・平和学・地域研究(太平洋諸島)。著書に「マーシャル諸島 終わりなき核被害を生きる」(新泉社)など。マーシャル諸島には1998年から17回訪問。現地に数週間滞在し、聞き取り調査を重ねる。広島市南区在住。

原爆資料館の歴代館長
 惨禍を伝える場の長として「被爆地の案内役」の役割を担う。初代は、廃虚からの被爆資料収集に努めた長岡省吾氏。開館した1955年に就任し62年まで務めた。高橋昭博氏は7代目(79~83年)。その後も川本義隆氏(83~93年)原田浩氏(93~97年)と被爆者の館長が続き、10代目の畑口実氏(97~2006年)は胎内被爆者。11代目には戦後生まれの前田耕一郎氏(06~13年)が就いた。滝川卓男・現館長は13代目。

(2023年7月3日朝刊掲載)

年別アーカイブ