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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <15> 軍縮の時代 軍艦削減 膨張政策を見直し

 原敬(たかし)首相が東京駅で凶刃に倒れた大正10(1921)年11月4日、加藤友三郎(ともさぶろう)は米国の首都にいた。

 広島出身の非藩閥ながら海軍大臣に在任6年余。海軍軍縮が主議題のワシントン会議に臨む直前だった。寡黙だが的確な判断力を認める原から首席全権を託されていた。

 第1次世界大戦後の建艦競争は日本を含む列強の財政を著しく圧迫した。軍事力による大陸膨張策から国際協調路線に転換した原は、米国からの会議打診に積極的に応じる。国予算の約5割を占める軍事費を産業育成に回す好機と捉えた。

 会議で米国は、今後10年間は主力艦を建造せず、保有割合を米英両国の各5に対し日本3との提案をした。対米7割は譲れないとの海軍内強硬論を振り切り加藤は受諾する。

 「国防ハ軍人ノ専有物ニ在ラズ」とは加藤の至言である。仮想敵国と戦わないために外交努力を重視する姿勢は、国民に受け入れられた。

 東洋経済新報の石橋湛山は会議の前、「大日本主義の幻想」と題して軍拡と植民地獲得を根本から批判していた。巨費をつぎ込んで諸民族を敵に回す植民地を全て放棄し、世界中の弱小国をわが道徳的支持者にすることが真の利益につながり、会議は政策大転換の舞台である、と。

 会議で実際にわが国は、山東半島の旧ドイツ権益の中国返還と北樺太を除くシベリアからの撤兵を表明した。政策大転換に至らないまでも、膨張政策の見直しへ動き出す。

 原の後継首相の高橋是清は立憲政友会をまとめきれず半年余で内閣総辞職し、政党への幻滅が拡大した。山県有朋亡き後、元老の松方正義はワシントン会議を成功に導いた加藤海相を後継首班に推薦する。

 大正天皇の病状悪化により摂政宮(後の昭和天皇)からの大命降下。政友会の支持を得た加藤は大正11(22)年6月、貴族院中心の内閣を発足させた。翌年8月の加藤病没による総辞職まで、ワシントン会議での国際公約を実行に移した。

 条約に基づき、既存の軍艦を廃棄し、新造艦の建造中止や空母転換を進めた。軍縮機運が盛り上がり、衆院建議を受けて陸軍も兵員整理を決める。これをも不徹底とする反軍的な風潮が世間に広がっていた。

 呉海軍工廠(こうしょう)では職工整理の嵐が吹き荒れた。大正10年の3万2千人が5年後には2万人台を割る。「海軍休日」の時代を迎え、不況に沈むのは軍事都市の宿命だった。(山城滋)

加藤友三郎
 1861~1923年。広島藩士家出身で海軍大学校卒。明治38年の日本海海戦で連合艦隊参謀長。同42年から4年間呉鎮守府司令長官。初の広島県出身の総理大臣。呉市入船山記念館に2020年、銅像が建立された。

(2023年7月1日朝刊掲載)

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