×

社説・コラム

『潮流』 神戸空襲の碑前で

■論説主幹 岩崎誠

 戦火に遭い、衰弱して命を落とす幼い少女と兄。野坂昭如の小説をアニメ化した「火垂(ほた)るの墓」で描くのが、1945年6月5日の神戸大空襲とされる。

 B29の大編隊の無差別爆撃で神戸市から阪神地方にかけては焦土と化す。3月以降の一連の神戸空襲は死者8千人以上というが正確な実態は分からない。

 犠牲者を追悼するため、「神戸空襲を記録する会」が市内の大倉山公園に「いのちと平和の碑」を建立してちょうど10年。久しぶりに訪ねてみた。会が市と協力して情報を募り、判明した死者の名を刻銘する。画期的な手法の碑は建立後も5回にわたって名前が追記され、その数は2231人にまで増えていた。

 刻銘の届け出は遺族でなくてもできる。目に付くのはフルネームでない人たちだ。「板谷三姉妹」「富松よっちゃん」「門田(夫)門田(妻)」「光庵一家七名」「伊藤家の家政婦」。何を意味するのか。

 あの家、あの店にいて空襲の犠牲となった人たち。歳月を経て名前ははっきり覚えていないが、彼らがこの街に生きていたことは決して忘れない―。市民の強い思いが読み取れる。

 中国地方も78年前の今ごろは市街地空襲が相次いだ。主には6月29日の岡山、7月1~2日に呉、下関、宇部、26日は徳山。広島への原爆投下を経て、8月8日の福山、14日の光、岩国と続いた。被爆地を除くと、死者の名を今も掘り起こすのはことしも犠牲者の名簿に2人を追記した岡山市ぐらいか。記憶を継ぐ営みは全体として心もとない。

 空襲被害者の救済法案の提出が通常国会でまたも見送られた。心身に傷を負った生存者への特別給付金とともに実態調査を定める。成立すれば曲がりなりにも被害の解明は進むだろう。ただ、それまで何もしなくていいか。神戸の碑前に立ち、もどかしさは募る。

(2023年7月1日朝刊掲載)

年別アーカイブ