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連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 アメリカ編 <27> パデューカ核施設(上) 原子力の街、揺らぐ誇り 労働者軽視、汚染明るみ

 ケンタッキー州西部の小都市パデューカ市。イリノイ州との州境をなすオハイオ川に面した人口約二万七千人の中心部から西へ車を走らせること約二十分、濃縮ウランを製造するパデューカ核施設に近づくと、辺りを覆うように白い蒸気が猛然と噴き出していた。

 「五基の冷却塔から噴き上げているのだ。煙突からは煙もね。二十四時間、年中この状態だよ」。ハンドルを握る環境活動家のマーク・ダーナムさん(49)は、立ち上る蒸気を見つめながら、いまいましそうに言った。

 パートナーのクリスティ・ハンセンさん(49)が後部席から続けた。「わが家はここから北東へ直線で十五マイル(二十四キロ)。イリノイ州南部は風下に当たるので、安心できないのよ」

 大学時代に知り合った二人は一九八〇年、イリノイ州ブルックポート市の森の中に十三エーカー(約五万三千平方メートル)の土地を購入して移り住んだ。野菜づくりなどに取り組む傍ら、九六年から「エネルギー省市民助言委員会(十七人)」のメンバーとして濃縮工場が生み出した膨大な汚染問題の責任を追及している。

 そのパデューカ核施設は、ソ連との冷戦が激化した五一年に「兵器用濃縮ウラン235の増産」を目的に建設され、五二年に稼働した。濃縮方法は、広島型原爆を生み出したオークリッジ核施設(テネシー州)の「K-25」工場と同じガス分離方式を採用している。

 産業の乏しいこの地域では、当時も今も最大の雇用の機会を提供する。「原子力の都市」と絵はがきなどでPRされ、市民も誇りにしてきた。

 「しかし、その誇りは今揺らぎ始めているよ。九九年になって、核施設の内部資料などから、これまでに何千人という労働者がプルトニウムで被曝(ばく)したり、工場の現場やあちこちの敷地、カフェテリアやロッカー室までが放射性物質で汚染されていたことが明るみに出てきたからだ」

 ダーナムさんは、敷地そばの公道をゆっくりと巡りながら言った。

 核兵器や原発用の濃縮ウラン235は、ウラン鉱山で採掘された天然ウランを精製し、いくつもの過程を経て製造される。パデューカ核施設では、従来の「イエローケーキ」と呼ばれる酸化ウランに代わり、七〇年代後半からは六フッ化ウランを他の施設から受け取り、その後の濃縮工程を担当する。

 ところが、原子力委員会(現エネルギー省)と契約会社は五三年以来、通常のルート以外に、兵器用プルトニウムを製造していたハンフォード核施設(ワシントン州)から使用済み核燃料を持ち込み、リサイクルすることで残りのウラン235を再び取り出そうとした。

 「知っての通り、使用済みのウラン核燃料にはプルトニウムや他の放射性物質が含まれている。特に毒性の強いプルトニウムは、たとえ微量でも体内に吸入すると、がんなどの病気を誘発して非常に危険だ。なのにその事実は労働者や住民に一切秘密にして、七〇年代半ばまでリサイクルを続けてきたんだ」とダーナムさん。

 二人の説明によると、九九年夏、放射線防護が専門の保健物理担当者ら従業員三人が「調査に基づくわれわれの汚染データが、あたかも法に準じているかのように不当に改ざんされている」と、会社を相手に提訴。マスコミなどの報道もあり、エネルギー省も独自の調査に動かざるを得なくなったという。

 その調査結果は二〇〇〇年二月までに「過去の実態」と「現状」に分けてそれぞれリポートにまとめられた。

 リポートには、従業員が濃縮工場での作業中にプルトニウム汚染物質などで被曝した可能性や、カフェテリアなどでも放射性物質や化学物質が確認されたことが記述されている。九〇年までに煙突からは「推定六万キロのウランが放出されただろう」とも指摘している。

 「でも、私たちはそこに書かれている数字など半分も信じていない。だって、人体や環境への影響については何もかもあいまいなんだから…」と、ハンセンさんは、強い不満を示した。

 敷地の周りにめぐらされた金網のフェンスには、いたる所に放射性物質が地下に埋められている標識が掲げられていた。そしてどこにいても目に入る劣化ウラン(U238)を収めた膨大な数のシリンダー…。

 「ウランの濃縮過程で得られる高レベル放射性同位元素のウラン235は1%にも満たない。残りのほとんどすべては、低レベル放射性廃棄物のウラン238、つまり劣化ウランというわけさ。ここの施設だけで約四万本もある」

 ダーナムさんの説明を聞きながら、先に取材したオークリッジ核施設「K-25」工場の戸外に放置されていたさびの目立つシリンダーを思い出した。

 米国内の劣化ウラン貯蔵シリンダーは、オハイオ州パイクトン市にあるもう一つのウラン濃縮施設と合わせ三カ所で保管。内容量約一一・三トンのシリンダーの合計数は約六万八千本、蓄積量は約七十七万トンにも達する。

 その一部は、比重の重い特性を生かして、頑丈な戦車などを貫通する「劣化ウラン弾」として利用。米軍は九一年のイラクに対する湾岸戦争や九九年のコソボ紛争などで使用した。

 ダーナムさんら二人の案内で核施設周辺の一部を視察した後、施設の西約一・六キロのケビル市に住む元従業員のアルフレッド・パケットさん(75)を自宅に訪ねた。

 「広島から? 実はね…」と、ソファに腰を下ろしたパケットさんは、遠い記憶を呼び起こすように目を細めて言った。「私は第二次世界大戦中、海軍の兵員輸送部隊にいてね。四五年九月には長崎まで兵士を運んで二週間滞在した。太い鉄柱が折れ曲がった造船所の建物など、原爆による破壊のすさまじさは今でも忘れられないよ」

 テラキー先住民のパケットさんは、穏やかな口調でひとしきり長崎での体験を語った。

 五二年に除隊後、職を求めてシカゴへ。パデューカに建設された核施設に働き口があると知って、結婚したばかりの妻のビビアンさん(70)を伴って故郷に戻り、五三年四月に職を得た。

 「ウラン濃縮工場では、配管などの維持管理に当たった。後に分かったことだが、『黒いウラン』と呼ばれていたドラム缶入りの物質は、ハンフォードから届いていたんだ。経営者はわれわれに『まったく無害だ。食べても大丈夫』と言っていた」

 当時、労働者は危険度に応じてより高い給与が支払われた。エネルギー省が調査したリポートには、六〇年三月の当局の手紙に触れながら「管理者は三百人の健康診断を必要と認めながら、それをやると危険手当を要求されるとの恐れから躊躇(ちゅうちょ)していた」とある。

 パケットさんは六〇年に、配管取り換え作業中に放射性蒸気を大量に浴びて、首回りに大やけどを負った。核施設内の病院で治療を受けたが、夕方になっても吐き気は止まらなかったという。

 だが、彼の上司からは「明日も出勤するように。でなければほかの者を探す」と通告された。

 無言のまま包帯姿で帰宅した夫にビビアンさんは、寝かせる以外何もできなかった。「とにかく翌朝もまだ何も食べられないし、仕事を休むように強く言ったけど『運転はできるから』と出かけてしまった」と彼女は振り返る。

 出勤したパケットさんは、その日は一日中病院のベッドで寝ていた。事故なしで操業を続けると、原子力委員会から契約会社に「ボーナス」が支払われる。「その記録を残すのが目的だった」と言うのだ。

 六〇年代を迎えるころには、パケットさんを含めすでに多くの労働者が気管支障害や慢性疲労、内臓疾患などの体調不良を訴えていた。組合役員だった彼は、会社が責任を持って作業着を洗ったり、危険な職場環境を改善するように経営者に要求を突きつけていた。

 「私はやけどをする前から『反体制派だ』『共産主義者だ』と嫌がらせを受けていた。やけどをしてからは『ホット・リスト』に加えられ、放射性物質を扱わない別の職場に回された。そこでは仕事は何も与えられなかった。『トイレ以外に部屋から出るな。立ったままでいろ』。それが命令だった」

 ほぼ二年間、そんな状態が続いた。「頭が狂いそうなほどの退屈さ」に耐えかねた彼は、六二年に退職。すでに購入していた約一・三平方キロの土地で、牛百頭を飼い、トウモロコシや大豆などをビビアンさんとともに育てた。しかし十年後に心臓発作を起こしてからは、農業もできなくなり、土地はリースしているという。

 「すでに当時の同僚の多くはがんなどで死亡した。八〇年にがんで亡くなったジョー・ハーディングという親しくしていた同僚は、百五十人以上の死亡者リストを残して死んでいったよ。私ももう少し長く現場で働いていたら、今ごろ生きてはいなかったろう…」

 憤りをうちに包み込んだパケットさんの三時間に及ぶ体験談。彼の証言から当時の契約企業の従業員への対応が透けて見えてくるようだった。

パデューカ核施設
 正式名称は「パデューカ・ガス分離工場」。1950年10月、トルーマン政権は「兵器用濃縮ウラン製造の倍増」を目指して、従来のオークリッジ核施設に加え、ケンタッキー州パデューカ市の西約15キロにあった通常兵器工場を核施設に転換することを決定した。

 51年1月、約14平方キロの敷地のうち約3平方キロを使い、濃縮工場などの建設に着手。52年末に一部が完成し操業を始めた。初期の契約企業には、オークリッジ核施設で濃縮ウランの製造経験のあるカーバイド化学社(現ユニオン・カーバイド社)が選ばれた。

 53年から76年までにハンフォード核施設から取り寄せた使用済みウラン核燃料は、10万3000トン以上。60年代半ばからは、兵器目的の濃縮ウランの製造から、急激に増加する原発の核燃料使用へと移行した。92年のエネルギー政策法により、民間移行のための「米国エネルギー社」(USEC)が設立された。以来、施設はエネルギー省に属しながら、98年に完全民営化されたUSECが製造に当たる。

 これまでに100万トン以上の濃縮ウランを製造。50年間の施設内外の汚染処理管理は、エネルギー省が担当している。現在の労働力は約2000人。 (文と写真 編集委員・田城明)

(2002年4月14日朝刊掲載)

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