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連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 アメリカ編 <28> パデューカ核施設(下) 隠された汚染 被害拡大 真実を求め住民提訴

 「最近は疲れが激しくてね。少し手も震えるし、自分の思い通りに体が動いてくれないんだ」

 小さな自動車修理工場で、一人で車の修理に当たるロナルド・ラムさん(49)は、大きな息をひとつついて言った。

 「一九六一年にこの修理工場を開いた父は、九四年に七十四歳で亡くなった。骨がんでね。小さいときから病気がちの自分は、大人になって体が汚染された両親ほども長生きできないだろう…」。厚い胸板、一八六センチの屈強な体つきのラムさんの表情に不安がよぎる。

 ケンタッキー州パデューカ市郊外にあるウラン濃縮工場のパデューカ核施設から北西へ約三キロ。母親のフランシスさん(80)が今も住む父母の家の並びの修理工場は、核施設から投棄された放射性物質や化学物質が流れ出たビッグ・バイユー・クリーク(小川)のすぐそばにあった。

 「わが家の農地を通っているこのクリークの向こうに核施設がある。昔はキャベツが腐ったような臭(にお)いがよくしてきたものだよ」

 仕事の手を休め、クリークのほとりに立ったラムさんは、今も水底が放射性物質のネプツニウムや重金属物質のカドミウム、化学物質のポリ塩化ビフェニール(PCB)などで汚染されているという水面(みなも)を見つめて言った。

 そこから農地を百五十メートルほど横切った所に、彼の家があった。視界が広がる家の裏からだと、核施設から立ち上る蒸気がはっきりと見える。休耕中の約〇・五平方キロの農地は、一面雑草で覆われていた。

 「農地も化学物質で汚染されている。二〇〇〇年九月のエネルギー省の調査では、農地の一部から高いレベルのプルトニウムまで見つかったんだ」

 八九年には地下水をくみ上げていた井戸の汚染も判明した。クリークのすぐそばにある父母の家の井戸水からは、プルトニウムや溶剤のトリクロロエチレン(TCE)、PCBなどが検出された。

 「自分が生まれた五二年にあの工場の操業が始まった。父母も私も胃腸障害をよく起こしていたけど、井戸水が汚染されているなんて思いもしなかった。その水で野菜作りまでしていたんだから…」。ラムさんは菜園があったという辺りを指さしながら早口で言った。

 父親のウイリアムさんの骨がんが見つかったのは九二年。体内に有毒の金属物質などを抱えるフランシスさんは、神経障害で手がほとんど動かなくなった。ラムさん自身も最近は骨の痛みや呼吸障害がひどくなってきているという。

 七二年に結婚した妻のドリスさん(50)、一人娘のマーティさん(24)の家族三人が使っていた井戸水は、クリークから離れている分、汚染度が低かった。二人の体には、まだ目立った症状は現れていないという。「それだけが唯一の救い。でも、不安はいつもある」とラムさん。

 エネルギー省が、パデューカ市水道局の上水をラムさんの家など周辺住民に供給するようになったのは九四年。その間ラムさん一家らは、風呂や洗濯は井戸水に頼りながら、飲み水は自前でミネラルウオーターを購入しなければならなかった。

 ラムさんらパデューカ核施設周辺の約百五十人の地主は、核施設や周辺への環境汚染がマスコミ報道などで明るみに出た翌年の二〇〇〇年九月、これまでの契約企業を相手に「土地汚染」に対する損害賠償を求め、パデューカ市の地区裁判所に集団訴訟を起こした。審理が始まるのは〇三年二月の予定だ。

 「土地は汚染されて買い手がつかない。ここから移り住みたくても、先立つものもない。訴訟を通じて、われわれを苦しめてきた企業や国の責任を認めさせたい」と、ラムさんは力を込めた。

 彼と別れた後、核施設北東のリトル・バイユー・クリークにほど近い元狩猟保護官のレイ・イングリッシュさん(60)宅を訪ねた。

 「いらっしゃい」。イングリッシュさんは、玄関先の部屋のいすに腰を掛けたまま不自由な手を差し出した。内に曲がったままの指は、硬く冷たかった。

 「私の両足は三十カ所も手術痕があるうえに金属パイプも入っている。両手も十年以上前からこんなありさまでね。心臓も悪い…」。彼はそう言って自らの手に視線を落とした。

 高校卒業後、空軍を経てパデューカ市で会社勤めをしたイングリッシュさんは、六九年に「ケンタッキー州野生動物管理エリア」の狩猟保護官になった。ちょうど核施設を囲むように約二十平方キロの森や畑地、クリークがオハイオ川まで広がっていた。

 シカ、リス、コヨーテ、キツネ、アライグマ、ウサギ、何十種類もの鳥たち、そして魚…。イングリッシュさんたちの仕事は、違法な狩猟に目を光らせながら、冬場に備えて小麦やトウモロコシなどを栽培して動物たちのエサを確保し、木の枝打ちやごみを処分して「バランスの取れた生態環境」を維持することだった。

 だが、核施設の敷地に近い管理エリア内には、工場からのドラム缶や金属がいっぱい捨てられていたという。そのドラム缶を使ってごみや木の枝、手袋など焼けるものは何でも焼いた。

 「ドラム缶には毒性の強い金属物質のクロムが残っていた。クリークにはウランやプルトニウム廃液、PCBなどが捨てられ、地下水まで汚染されていた。何もかもこの数年で知ったことばかりなんだよ」

 イングリッシュさんたちは、日々の仕事を通じて放射性物質や金属物質を体内に蓄積していった。飲料水は管理エリア内の井戸を利用した。

 有害物質を体内に蓄積したのは動物や魚も同じ。エネルギー省が実施してきた七〇年代以後の調査記録には、すべての動物や魚から高レベルのPCBが検出されたことや、シカの肉からプルトニウムが見つかったことなどが記録されていた。

 「住民は常にエネルギー省や契約会社から『シカなどの肉は安全。市民は安心してハンティングを楽しんでいい』と聞かされ続けてきた。田舎の人間はみんな当局のいうことを信じている。だから調査記録に関心を向けるなど及びもつかない」

 七四年五月、イングリッシュさんは心臓発作で倒れた。それ以後、徐々に体調を崩し、職場には戻れなかった。彼の下で働いた若年の五人のうち、すでに二人はがんなどで死亡。もう一人は皮膚がんの手術を受け、残り二人も腎臓を摘出するなど闘病中だという。

 「むごい現実だよ。私の家族も全員、重金属物質などで汚染され、病気を抱えている。風下だけに、大気からの放射性降下物による被曝(ばく)もある。が、どれだけ浴びたかなんてさっぱり分からない」

 妻のルビーさん(56)は、二〇〇一年秋に大腸と甲状腺にがんが見つかり手術を受けた。二人の子どものうち、長男のトニーさん(37)は糖尿病を患う。二男のラリーさん(31)は四歳のころから体のバランスが取りにくくなり、十三歳で「運動失調症」と診断された。今では車いす生活を余儀なくされている。

 核施設の汚染問題がクローズアップされるようになって約半年後の二〇〇〇年春、ラリーさんはテネシー州ナッシュビル市の専門医の診断を受けた。体内にはアルミニウムやカドミウム、ホウ素など二十八種類もの有毒物質が異常に蓄積されているのが判明。家の井戸水に含まれていた物質とほぼ同じだった。

 最近は激しい頭痛や目まいに襲われることも多い。年とともに悪化する病状…。

 「ぼくはもう十代や二十代のときのように夢や希望は抱かなくなった。後にフラストレーションしか残らないから…」。ラリーさんがそばから、口惜しさをにじませながら言った。電動車いすに乗り、家の庭で飼っている四十羽のニワトリの世話をして部屋に戻ったばかり。そんな彼が固い決意を示すように身を乗り出して訴えた。

 「どうしてもひとつだけ、はっきりさせたいことがある。自分がなぜこんな体になったのか、家族や周りの人たちがなぜこんなにたくさん病気になったり死んだりしているのか、法廷で真実を求めたいんだ」

 イングリッシュさん家族は、土地汚染に対するラムさんらとの集団訴訟とは別に、「病気との因果関係が明白である」として、ラリーさんの「健康障害」への賠償を求め契約企業を相手取り地区裁判所に提訴した。

 イングリッシュさんらの訴えには、半世紀にわたって企業や国に欺かれ、汚染物質で体をむしばまれてきた住民たちの怨(おん)念さえ感じられた。(文と写真 編集委員・田城明)

スリーマイルアイランド原発
 1974年9月、1号機(加圧水型・出力約82万キロワット)が営業運転を開始。78年3月28日に臨界に達し、年末に営業運転に入った2号機(加圧水型・出力約94万キロワット)は、臨界から丸1年後に炉心溶融事故を起こす。

 溶融が分かったのは82年。溶融の度合いは最初の20%から89年には約50%にまで達していたのが判明。同じ年に原子炉容器の亀裂も見つかり、最悪の事態寸前だったことが明るみに出た。

 2号機の建設費に7億ドル(約840億円)。事故後の損傷燃料取り出しに10億ドル(約1200億円)を出費。除染・解体作業にはなお莫大(ばくだい)な費用が見込まれている。TMI原発を操業のGPUニュークリア社の保険会社は、健康・経済・避難に伴う住民の損害賠償請求に、3800万ドル(約45億6千万円)以上を支払った。

 79年以後運転をストップしていた1号機は85年に再開。1号機は98年から「アマージェン社」に、2号機は2001年から「ファースト・エネルギー社」にそれぞれ所有権が移っている。

(2002年4月21日朝刊掲載)

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