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連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 アメリカ編 <29> スリーマイルアイランド原発(上) 傷癒えぬ「最悪の事故」 被曝の影響会社は否定

 「事故当時を思うと、今でも恐怖心が消えなくて…」

 ペンシルベニア州の州都ハリスバーグ市のはずれに住む環境活動家のメアリー・オズボーンさん(58)は、車窓の向こうに見え始めたスリーマイルアイランド(TMI)原発に目をやりながら言った。

 ニューヨーク市から車でほぼ西へ三百キロ。一九七九年に炉心溶融事故を起こしたTMI原発は、人口約六万人のハリスバーグ中心部から南東へ約二十キロのサスケハナ川に浮かぶ島にあった。

 「冷却塔から今も蒸気を吐き出しているのが、稼働中の一号機よ。事故を起こしたのは、南隣の二号機。炉心には、溶融して取り除けない五トンとも十トンとも言われる核燃料が今も残っている」

 オズボーンさんは、原発に近い川の東側に当たる「ビジターズ・センター」に車を止め外に出た。水曜日だがセンターは閉鎖されたまま。道路端には「技術的な作動不能と人為ミスによる全米最悪の原発事故」で、三月二十八日から数日間にわたり放射線が大気中に放出され「何千人(実数は約十四万人)もの原発周辺住民が避難した」との標識が立っていた。

 「私の家は原発のあるミドルタウンから六・五マイル(一〇・四キロ)。あの朝六時ごろに外に出たとき、何か金属を口に含んだような異様な味を感じたの。でも、大事故が起きているなんて思ってもいなかった」と彼女は振り返る。

 炉心への冷却水が減少し、空だき状態が始まったのは二十八日午前四時ごろ。そのために燃料棒の一部が溶融を起こし、放射線が大気中に漏れた。が、事故を知らない周辺住民は、いつも通りの生活を続けた。

 オズボーンさんは、その日のうちにラジオや近所の人を通じて事故を知ったという。しかし深刻な事故ではなく、放射能漏れも「心配するほどのものではない」との原発当局の発表に、翌日も九歳の長女を学校へ送り出した。

 州知事がラジオを通じて、原発から半径五マイル(八キロ)の子どもや妊婦に避難勧告を出したのは事故三日目の三十日朝。オズボーンさんの家は勧告の地域外だったが、夫(54)と長女、長男(2つ)の一家四人は南へ約八十キロ離れた知人の農家に身を寄せた。

 安全宣言が出るまでの約一週間、避難した五組の家族が共に暮らした。中には食欲のない人や「気分が悪い」と、ほとんど横になったままの人もいたという。

 オズボーンさんが、家族の体の異変に気づいたのは、八日ぶりに自宅へ帰ったときだった。「息子の髪を洗ったら、あまりにたくさん抜けるのでびっくりしてしまって…。そしたら娘も夫も同じように抜けたという。なぜ? そのときは戸惑うばかり。放射線被曝(ばく)の影響だと知ったのは、だいぶたってからのことよ」

 事故を起こしたGPUニュークリア社は、放出した放射線量は「一般人の年間の被曝線量限度内で、人体に影響を与えるほどのものではない」と、今でも主張している。

 しかし、放射線量を測定するモニター装置は働いておらず、オズボーンさんら多くの住民は、会社の主張を「訴訟対策にすぎない」と全く信じていない。放射線が人体や環境に与える影響について知識のなかった彼女は、子育ての傍ら関係本を読み、自宅の庭や周辺の農場を訪ねて植物や家畜などに異変がないかを調べるようになった。

 「カエデの葉が極端に大きくなったり、チューリップの花が一本の茎に複数咲いたり…。放射線の影響による突然変異はいくらでも見つけることができた」とオズボーンさん。TMI原発周辺を訪ねた後、彼女の家に立ち寄ると、これまでに集めた実物や写真のサンプルを見せてくれた。

 牛や羊の死と死産、犬や猫などのペットの変死…。オズボーンさんは、幾つもの事例を農家の人たちから聞くことができたという。

 原発近くに住む多くの人たちが、後に起きたチェルノブイリ原発事故時と同じように「金属のような味」を味わっていた。髪が抜けたり、腕や顔に赤い発疹(ほっしん)が出た人もいた。「放出された放射線量がどれだけ高かったか、こうした症状からもはっきり言えることよ」と、オズボーンさんは強調する。

 やがて家畜を失った農民や、先天性障害の子どもを生んだ親らから訴訟が起こされるようになった。

 オズボーンさんの紹介で、翌日、そうした一人であるデビー・ベイカーさん(45)をキャンプヒル市の自宅に訪ねた。事故当時原発の西側対岸約九キロに住んでいたベイカーさんは、八〇年一月に長男のブラッドレイさんを生んだ。二十二歳に成長したブラッドレイさんはダウン症である。

 「事故が起きたのは妊娠して間もないころ。とても心配だったけど、避難勧告が出る三日目まではふだん通り夫も私も勤めに出ていた」。近くの障害者作業所での勤務を終えて帰宅したブラッドレイさんを抱きしめながら、ベイカーさんは言った。

 電話会社に勤める夫(46)も州政府職員だった彼女も、職場はハリスバーグにあった。避難の当日は「パニック状態」で自宅に戻り、ベビーシッターに預けていた九カ月の長女を引き取り、五十キロ北の友人宅を目指して車を走らせた。

 一週間後、「安全宣言」が出されても、自宅へ戻るのが怖かった。ときがたつにつれ、おなかの赤ちゃんが一層気になった。やがて誕生した赤ちゃんへの喜びもつかの間、ダウン症と分かって夫妻は「絶望の淵(ふち)に突き落とされた」と言う。

 「当時、私はまだ二十三歳。起こった現実への怒りと戸惑いをどこにぶつければいいのか分からなかった」

 仕事を辞めたベイカーさんは、二人の子育てをしながら、図書館で借りた放射線と人体の影響に関する何冊もの本を読み、ブラッドレイさんの障害が原発事故による放射線被曝が原因だと確信を抱くようになった。

 そして八一年、弁護士と相談して連邦地区裁判所に会社を相手取って提訴した。しかし裁判にはならず、八五年に示談で補償金を受け取った。「示談の内容は口外しない」というのが条件。が、同じころに示談で解決した約三百件の中では「百万ドル(約一億二千万円)余」の最高額だったと言われている。

 「私は法廷で会社の責任と、被曝との因果関係を明らかにしたかった。でも、集団訴訟だったので、私だけが勝手に決めるわけにはいかなかった」

 補償金は銀行に預けたままというベイカーさんは、自身に語りかけるようにしみじみと言葉を続けた。

 「ブラッドレイの体が健康な体に戻るのならお金は要らない。息子だけでなく、結婚した娘も二人の孫も、私たち夫婦も、将来の健康を思うといつも不安なの。事故を起こした会社への怒りは今も消えていない…」

 GPUニュークリア社は、ブラッドレイさんに限らず、これまでのすべての示談解決に「補償金の支払いは保険会社の独自の判断。放射線被曝や放射能汚染との因果関係をわが社が認めたわけではない」としている。

 がん患者やその遺族ら集団訴訟で会社を訴えている人数は、現在も約二千人に達する。

 原告側は「事故後原発から半径六~十二キロの住民の間で、白血病や肺がん患者が四倍近くに達している」とするコロンビア大学関係者の調査結果や、原発近くの樹木の損傷から「被曝線量は三百レム(三シーベルト)と推定される」とするロシアの専門家の調査を証拠資料として提出。が、地区裁判所の判事は「広く認知されたものではなく、証拠不十分」と訴訟を却下した。

 原告らは控訴裁判所に「判事の措置は不当」と三度目の不服申し立てをしている。後に会ったハリスバーグ在住の主任弁護士リー・スワーツさん(65)は「本来は法廷で審議し、陪審員の判断もあおぐべきケース。ただ最近の法の改正で専門家の意見採用が難しくなっており、楽観はできない」と厳しい見方をする。

 ベイカーさんは「あの事故のために本当に苦しんでいる人たちはまだまだたくさんいる。その人たちも救済されないと…」と、裁判の行方を気遣った。

 一見、牧歌的で平和なたたずまいを見せる農場地帯。しかし、TMI原発事故の後遺症は、歴然と続いていた。(文と写真 編集委員・田城明)

スリーマイルアイランド原発
 1974年9月、1号機(加圧水型・出力約82万キロワット)が営業運転を開始。78年3月28日に臨界に達し、年末に営業運転に入った2号機(加圧水型・出力約94万キロワット)は、臨界から丸1年後に炉心溶融事故を起こす。

 溶融が分かったのは82年。溶融の度合いは最初の20%から89年には約50%にまで達していたのが判明。同じ年に原子炉容器の亀裂も見つかり、最悪の事態寸前だったことが明るみに出た。

 2号機の建設費に7億ドル(約840億円)。事故後の損傷燃料取り出しに10億ドル(約1200億円)を出費。除染・解体作業にはなお莫大(ばくだい)な費用が見込まれている。TMI原発を操業のGPUニュークリア社の保険会社は、健康・経済・避難に伴う住民の損害賠償請求に、3800万ドル(約45億6千万円)以上を支払った。

 79年以後運転をストップしていた1号機は85年に再開。1号機は98年から「アマージェン社」に、2号機は2001年から「ファースト・エネルギー社」にそれぞれ所有権が移っている。

(2002年4月28日朝刊掲載)

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