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連載・特集

近代発 見果てぬ民主Ⅶ <16> 虎ノ門事件 「社会革命を」 摂政宮狙撃

 大正12(1923)年12月27日に難波大助が摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃した虎ノ門事件の現場は、高層ビルの谷間にある。1世紀を経て道路形状は変わったが、当時は貴族院開院式に向かう摂政宮を拝観する人混みができていた。

 ステッキ銃を忍ばせていた大助は沿道の警戒線を突破し、お召し車のガラス戸に向け散弾1発を発射した。摂政宮は無傷だったが侍従が軽傷を負う。第2次山本権兵衛(ごんべえ)内閣は責任を取って総辞職した。

 大助は山口県熊毛郡周防村立野(たての)(現光市)の財産家の四男。徳山中学中退で私立中編入を経て大正8(19)年に上京。大正デモクラシーの空気に触れて普選運動に加わる。

 国会を傍聴して原敬(たかし)首相の普選否定発言に憤った大正9(20)年、父の作之進が衆院選に当選した。「主義政見はなく家の名誉のための立候補」に大助は反感を抱く。思想界は激動の時代で、デモクラシーに代わりマルクス主義や社会主義が知識人や若者を引き寄せた。

 大助は東京の貧民街に住み、社会主義思想を抱く。幸徳秋水たちが死刑になった大逆事件の公判記事を大正10(21)年に読み、テロリストたらんと決意。社会主義者大会では警官の横暴を目の当たりにした。

 大正12年9月に関東大震災。労働運動家10人が亀戸署で、無政府主義者の大杉栄らが憲兵隊司令部で殺害され、朝鮮人多数が虐殺された。大助は憤慨する。郷里からステッキ銃を携えて上京途中の京都で摂政宮の行啓記事を読み、テロを思い立つ。

 摂政宮狙撃の目的を「社会革命を遂行する手段の一つ」と大助は検事に答えた。公判で「無産者独裁と皇室の存立は両立しない」と述べる。

 最終陳述で大助は「共産主義正面の敵でない皇室に危害を加えようとしたことは間違いだった」と修正した。「改悛(かいしゅん)の情」はしかし、予想をはるかに超える親族への迫害を緩和するためと弁護士に打ち明けた。

 大正13(24)年11月13日、大逆罪による死刑判決を言い渡された後、大助は日本無産労働者、日本共産党万歳など大声で万歳三唱して周りを驚かせる。減刑による助命という思惑を封じるような行為だった。2日後に刑が執行された。(山城滋)

難波大助
 1899~1924年。少年時代は皇室を信奉。兄弟は秀才ぞろいで本人は厳格な父との葛藤を抱え、17歳で母と死別。早稲田高等学院中退。ステッキ銃は伊藤博文がロンドンで求め、知人経由で難波家に渡ったとされる。

(2023年7月4日朝刊掲載)

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