×

連載・特集

21世紀・核時代 負の遺産 アメリカ編 <32> ミッドナイト・ウラン鉱山 大量の汚染源、なお放置 蝕まれる先住民の暮らし

 「何百年と続いてきたわれわれ先住民の暮らしと文化が、冷戦期の三十年足らずのウラン採掘で破壊されようとしている…」

 ワシントン州東部に居留地のあるスポケーン先住民のアルフレッド・ピオーンさん(56)は、席に着くといきなり危機感をにじませながら言った。居留地中心の町ウェルピニット。歴代首長の写真が掲げられた行政庁舎で会ったピオーンさんは、人口約二千二百人のスポケーン先住民の首長である。

 南をスポケーン川、西をコロンビア川に囲まれた居留地の面積は、約六百三十平方キロ。マツやヒマラヤスギなどに覆われたその居留地にウラン鉱山が見つかったのは一九五四年のことである。ソ連との核開発競争が激化するなか、政府は核兵器に必要なウランの増産を図っていた。

 「当時の長老たちは愛国心と『スポケーン先住民は世界で一番リッチになる』との政府役人の言葉を信じて採掘に協力した。林業以外に目ぼしい仕事のなかった多くの男たちも鉱山で働いた」と、ピオーンさんは説明する。

 だが、先住民で豊かになったのは鉱山を発見し、居留地の外に住む一部の家族だけ。残りの利益はウラン鉱山を操業するドーン鉱山社や、金採掘で有名な親会社のニューモント社(コロラド州)が得たという。

 五七年には、居留地東側境界に接するフォード町に、天然のウラン鉱石から酸化ウラン(イエローケーキ)を取り出すドーン製錬工場が、同じ社によって建設された。積雪で鉱山が閉鎖された冬場の四カ月余を除いて毎日、製錬工場までの約二十七キロの未舗装道路を、ウラン鉱石を積載したトラックが砂塵(さじん)を巻き上げながら走った。

 しかし、オーストラリアなどでのウランの量産や、七九年のスリーマイルアイランド原発事故の影響でウラン価格が暴落。採算が合わなくなったミッドナイト鉱山は八一年に閉鎖され、翌年には製錬工場の操業もストップした。

 「後に残ったのは露天掘りのピット(穴)に、含有率の低い膨大なウラン鉱石や製錬後のウラン鉱滓(こうさい)。それらが近くのクリーク(小川)や地下水などを汚染し続けている」とピオーンさんは憤る。

 彼と別れた後、行政庁舎から二百メートルほど離れた天然資源部の一室で、元ウラン鉱山労働者のアート・フレットさん(74)や妻でスポケーン語教師のポーリンさん(75)ら数人の年配者と会った。

 慢性気管支障害で十数年前から酸素吸入器に頼るアートさんは五七年から六年間、トラックで鉱石を運んだり、ピット内で掘削作業に当たった。

 「鉱山はいつもほこりっぽかった。放射能の危険など何も教えられず、防護マスクもなかった。手は汚れたまま、ウラン鉱石に腰を下ろして昼飯を食べたもんだ」。肺や気管支を痛め体調を崩したアートさんは、回復後は木の伐採仕事に従事した。

 フレット夫妻ら年配者によると、操業中のウラン鉱山と製錬工場で働いた居留民の男たちは、延べ五百人を超える。そのうちの多くが肺がんや心臓病などさまざまな病気にかかり、すでに亡くなった者も多いという。

 「居留地に住む女性や子どもらの健康も随分と影響を受けてきた。トラックが行き交って、ウランを含んだチリを体に吸入したり、汚染された野菜や魚を食べてきたんだから…」とポーリンさんは強調する。

 いつも食べてきた七面鳥やライチョウなどの鳥が激減。シカやマスなど先住民の暮らしに欠かせない動物や魚も減った。胃腸の調整剤などに使われてきた薬草も「放射能汚染が怖くて今では摘みにいく者もいない」とポーリンさんは、代々受け継いできた生活習慣が消滅しつつある事態を嘆く。

 スポケーン行政府は、先住民の立場から環境アセスメントを進めるため、鉱山の地下水分析などを専門にする地質学者のフレッド・カーシュナーさん(41)を九二年から雇っている。彼の小型トラックで、ウェルピニットから北西へ約十三キロ、標高九〇〇メートルのミッドナイト・ウラン鉱山へ向かった。

 深い森を切り開いてできた道路には、まだ雪が残っていた。約三十分で露天掘りのウラン鉱山跡へ。

 広大な森林地帯に出現した赤茶けたむき出しの大地―。前日、小型機で上空を飛んだ印象に、不安も幾分加わった。カーシュナーさんが手にした放射線測定器が「ピ・ピ・ピ・ピ…」と激しく鳴り始めたからだ。

 何層にも掘り下げられたピットの深さは約百メートル。底には放射能を帯びた水が凍結していた。

 「八百エーカー(約三・二平方キロ)ほどの広さに二つのピットがある。鉱山が閉鎖された八一年から十年間はたまった水もあふれるがまま。近くのブルー・クリークからスポケーン川、コロンビア川へと重金属を含んだ放射能汚染水が流れ込んだ」とカーシュナーさん。

 九二年からピットに流れ込む地下水や雨水だけは、ようやくドーン鉱山社によって汚染処理をされるようになった。

 ピットの周辺にはいたる所に「金にならない」ウラン鉱石が投棄されていた。その量は三千五百万トンにも達するという。山積みになったそんなひとつにカーシュナーさんが近づくと、空気中の放射線量は毎時千マイクロレントゲンを指した。

 「居留地の自然放射線量は平均十マイクロレントゲンだから、百倍も高い。風の強いときは砂ぼこりが飛び散り、住民の体内に吸入される可能性もある。随分危険なんだ」

 アメリカ南西部のニューメキシコ、アリゾナ、ユタの三州にまたがるナバホ先住民居留地には千を超すウラン鉱山があり、八〇年代に相次いで閉鎖された。九九年にそんな町のひとつ、ニューメキシコ州チャーチロックを訪ねたときも、閉山後は一面に放射性廃棄物が残され、居留地の環境や先住民たちの健康を蝕(むしば)んでいた。

 鉱山現場を視察した翌日、フォードのドーン製錬工場を訪ね、副社長で現場責任者のボブ・ネルソンさん(56)に会った。

 「工場は今も春から秋にかけ細々とイエローケーキを製造している。九二年に始めた鉱山の汚水処理の際に出るスラッジ(汚泥状の廃物)に含まれるウランを取り出しているのだ」

 ジーンズ姿のネルソンさんは、小規模の工場を案内しながら言った。どの機械も用具もいかにも半世紀近い年月を経た古いものばかりである。八二年からは赤字経営が続き、親会社のローンで閉鎖計画を進めているという。

 工場を出ると、今度は車で近くの鉱滓保管現場へ。低い土手を上がると、一面真っ白に凍結した鉱滓池が広がっていた。

 五つの人工池を合わせた面積は約〇・四平方キロ。ウランや鉄、マンガンなどを含んだ細かい砂状の鉱滓は、放射性廃液とともに工場からパイプで送られた。五七年の稼働時から八一年までに捨てられたその量は約三百万トン。重金属も混ざった廃液は地下の帯水層を汚染し、その水が近くのシュミケン・クリークに湧出(ゆうしゅつ)した。

 ドーン鉱山社が、雨水が鉱滓に染み込むのを防ぐために、その上に厚いビニールを敷いたのは九五年のこと。それまでは防護対策が立てられなかった。

 「汚染といっても深刻なものではないし、すでに過去の出来事だ。今はこの水を自然蒸発させている。その後は新しい強化プラスチックで全体を覆って、その上にきれいな土を十五フィート(約四・五メートル)積み上げる。それで千年は住民から放射能汚染物質を安全に遠ざけることができる」

 ワシントン州政府の許可も取っているというネルソンさんは「二〇一九年の完了予定を十年は縮めたい。雨や雪が降らず、今日のような日和が続いてくれるといいのだが…」と快晴の空を見上げた。

 だが、底に何の防護もない三百万トンの鉱滓が、今後帯水層やクリークに影響を与えないという保証はあるのか。強化プラスチックが千年もの間破損することはないのか…。

 その疑問にネルソンさんは「もともと低レベルの放射能を含んでいるだけ。心配するようなことはない」と事もなげに言った。

 一方、連邦環境保護局(EPA)が二〇〇〇年に、最も汚染された地を意味する「スーパーファンド・サイト」に指定したウラン鉱山の閉鎖計画はまだ決まっていない。人体への影響を含めた環境評価を終え、今夏にはEPAから計画案が出される予定である。だが、ブッシュ政権下でEPA予算が大幅に削減されるなど環境政策は後退。計画案の作成の遅れが懸念されている。

 かつて白人に迫害され、一九三〇年代には病気などで九百人にまで減ったスポケーン先住民。少数派の先住民の政治力は、新世紀を迎えてもなお弱い。それだけに住民の間には「十分な汚染防止対策が立てられるのだろうか…」との不安も根強い。

 しかし、彼らの先頭に立つピオーンさんは、住民の不安を打ち消すように強い決意を込めて言ったものである。

 「飲料水から精神的な儀式に至るまで、われわれの暮らしは自然と密接に結びついている。だからこそ汚染のない環境が必要なのだ。鉱山や製錬工場の閉鎖計画が遅れたり、内容がいい加減であれば訴訟も辞さない」(文と写真 編集委員・田城明)

(2002年5月19日朝刊掲載)

年別アーカイブ