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近代発 見果てぬ民主Ⅶ <17> 県民総ざんげ 「大不敬」思想善導を強化

 大正12(1923)年12月に摂政宮(後の昭和天皇)を狙撃した難波大助は獄中で改悛(かいしゅん)を拒むが、接見に来た親族から父に短刀が送られてきたと聞いて頭を伏せたという。

 父の作之進は息子の犯行直後に衆院議員を辞した。山口県熊毛郡周防村立野(たての)(現光市)の屋敷の門に青竹を組み、肉食を断ってひげもそらずに謹慎の日々を送る。「国賊の家族」の負い目は兄弟にものしかかった。県知事は減俸処分を受け、県民の猛省を促した。

 大正13(24)年9月に事件報道が解禁されると、県民総ざんげの様相を呈す。「今次の凶漢が勤王を以(もっ)て誇れる二州の地より出でむとは」と知事は嘆き、県職員らが二度と不祥事を起こさぬと宣誓。周防村も各戸1人を小学校に集め宣誓式をした。

 県庁のある山口町では同月21日の県民祈誓式に知事ら千人が参集。国民精神の涵養(かんよう)振作を決議し、全県でこの日は歌舞音曲を止めた。県は各地で思想善導の講演会を開き、学校は国家主義的な指導を強めた。

 大正15(26)年5月、摂政宮が巡啓で山口県入りする。難波作之進は前年5月に謹慎のまま死去し、その後も長男以下残された家族は門を閉ざし、社会から隔離されていた。

 摂政宮から難波一家の近況について質問があった。「一家の謹慎の情をふびんに思(おぼ)し召しと拝察される」と侍従長が伝えると、知事は「御寛宏なる御聖旨に感泣いたす次第」と謝し、経緯を新聞発表した。

 摂政宮を県内各地で老若男女が大歓迎した。虎ノ門事件の汚点を一掃するかのような熱烈さだった。

 大助の大不敬事件の総決算をもたらした摂政宮行啓を記念して昭和3(28)年、県庁南側の春日山中腹に防長先賢堂が完成する。事件への反省と皇室への忠節を誓うシンボル的な建物だった。近年は放置され、存在を知る県民は少ない。

 大正期は自主性重視の教育が山口県内の学校でも広がったが、虎ノ門事件後は急速にしぼんだ。大正14(25)年には国体変革や私有財産制否定の運動を取り締まる治安維持法が制定される。同事件が契機の一つとなった。大助の意図とは正反対に歴史は動いた。(山城滋) =見果てぬ民主Ⅶおわり

 難波家その後 一族は黒川に改姓し、立野の家は廃屋に。作之進の祖父で幕長戦争で活躍した難波覃庵(たんあん)私設の「向山文庫」が隣に現存。2021年に覃庵生誕210年展が光市であり、難波・黒川家寄贈の書画、書状などを展示した。

(2023年7月5日朝刊掲載)

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