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21世紀・核時代 負の遺産 日本編 <36> 六ケ所原子燃料サイクル施設(下) 核のごみ集積、募る不安 原発のツケが下北住民に

 「下北半島はこの十年余りで原子力半島に変わってしまった。それも原発から生まれる核のごみの集積場にね…」

 青森県内の市民らでつくる核燃料廃棄物搬入阻止実行委員会の平野良一委員長(73)は、青森市の県庁内で言葉をかみしめるように言った。

 五月三十一日午後。実行委のメンバー四人とともに、木村守男知事あての「MOX(ウラン・プルトニウム混合酸化物)燃料加工施設に関する公開質問状」を事務当局に提出したばかり。質問状には「六ケ所原子燃料サイクル施設」の一環として、日本原燃が昨年八月に新たに県に立地要請し、現在も審査中のMOX燃料加工施設について二十七項目にわたる質問が記されていた。

 「県民の間には、六ケ所核燃施設が核のごみ捨て場になるのではないかという不信、不安が根強くある。特に地元の六ケ所村や周辺地域ほどそれが強い。しかし利害が絡んだりして、その不安を声に出せないのが実情。われわれは声なき声の代弁者のつもりで県や国の姿勢を問うています」。青森市の南隣、元浪岡町長の平野さんは穏やかな口調で言った。

 今年四月、県が委嘱した専門家による検討会は「MOX燃料加工施設の建設は妥当」との報告書をすでにまとめている。木村知事が建設許可を出すのは既定の方針とも言えた。

 だが、平野さんら実行委の人たちは「放射能汚染やMOX燃料使用の問題など疑問点がいっぱいある」と指摘する。そんなひとつに再処理工場から取り出したプルトニウムが「将来、日本の核武装に使われるのではないか」との疑問も呈している。

 六ケ所MOX燃料加工施設は、再処理工場から取り出したプルトニウムとウランの割合が一対一のMOX粉末を用いるのが前提条件となっている。

 「ところが国の『MOX燃料加工施設審査指針』によると、ウラン酸化物とプルトニウム酸化物の混合割合は『任意のものとする』となっている。これは核兵器材料となるプルトニウムを単体で取り扱う可能性を残したことにほかならない」と平野さんは指摘する。

 再処理工場は、国際社会ではプルトニウムを取り出す「軍事施設」と同等にみなされる。そのために、国際原子力機関(IAEA)による厳しい査察が入り、日米原子力協定による縛りもかかる。

 「確かにIAEAの査察があり、アメリカ側の監視もあるでしょう。でも、最近の有事法制化への動きや、福田康夫官房長官ら政府首脳らの非核三原則見直し発言などと重ね合わせれば、『被爆国だから核兵器は造らない』などと安穏なことは言えなくなってきた。少なくとも、外国にはもうそんな論理は説得力を持ち得なくなってきています」

 第二次大戦中の一九四四年春、十五歳で予科練に入隊したかつての「軍国少年」は、端正な顔に憂いを浮かべた。

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 リンゴ生産や林業、漁業など一次産業のウエートの高い青森県は、六七年に原子力船「むつ」の母港化を受け入れて以来、地元住民が「核燃」と呼ぶ六ケ所原子燃料サイクル施設、東北電力と東京電力が各二基ずつ建設を予定している東通原子力発電所、電源開発が進める大間原子力発電所などを誘致してきた。

 さらにむつ市では、二〇〇〇年に東電の使用済み核燃料中間貯蔵施設の建設計画が浮上。五月末には、青森県が国に働きかけていた欧州、ロシア、日本が進める国際熱核融合実験炉(ITER)の日本の建設候補地として、六ケ所村が正式に決まった。

 こうした原子力施設の誘致が県の財政に寄与し、六ケ所村など地元自治体の財源を潤してきたのも事実である。立派な庁舎、文化交流プラザ、郷土館…。原発のある日本のほとんどの自治体と同じように、六ケ所村の公共施設も目を見張るばかりである。

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 だが、そんな村の在り方に違和感を覚え、異議を唱える人びとも少なくない。原子燃料サイクル施設から南へ直線で約五キロ。六ケ所村八森で乳牛六十五頭を飼う酪農家の佐々木敏さん(57)もそのひとりだ。

 「わたしら酪農家にとって環境汚染のない大地が命。それが再処理工場の稼働で、原発などと比較にならないほどの放射性物質が大気中や海水に放出される。大気中のトリチウムやヨウ素などが地上に降り注ぎ蓄積されると、牧草が汚染され、食物連鎖で安全なミルクを消費者に届けることが難しくなる」

 朝の搾乳を終えて一段落した佐々木さんは、牛舎そばの戸外の椅子(いす)に腰を下ろすと、自らの思いをとつとつと語り始めた。

 両親と妹二人の一家五人が、宮城県から新天地に移り住んだのは五七年、十三歳のときだった。中学卒業後は今は亡き父親とともに、四十年余り酪農一筋でやってきた。今では一日約一トンのミルクを出荷する。

 「日本原燃は『放射性物質は高い排気塔から出て拡散されるので心配ない』という。でも雨が降れば、死の灰も一緒に近くに降り注ぐ。将来は『六ケ所村のミルク』と言うだけで、価格が下がってしまうだろう…」

 原子燃料サイクル施設の建設が表ざたになった八四年以降、佐々木さんと同じ思いを抱く農民や漁民らが中心になり激しい反対行動を繰り広げてきた。が、実際に建設が始まった九〇年前後からは徐々に活動はしぼみ、既成事実の積み重ねとともに「もう何をしても駄目だろう」とのあきらめが村民の間に広がっていった。

 六ケ所村では土木建築業者が増え、定数二十二人の村議会もそうした関係者が強い影響力を持つようになったという。電源三法交付金や原燃の固定資産税などで村の財源は本年度一般会計予算で百億円余。人口約一万七千人と人口規模の似た隣の野辺地町と比べても、ほぼ二倍近い予算である。

 「でもね、財源が増えるに従って村長や議会、業者らの利権絡みの噂(うわさ)が絶えなくなった。収賄容疑で警察から任意の事情聴取を受けていた現職の村長は、取り調べ中の五月に自らの命を絶ったばかり。国や原子力関連業者がもたらす札束に目を奪われ、昔の厚い人情や心を失ってしまった村民が幸せになったとはとても思えん」

 小柄な佐々木さんはそう言って帽子をかぶり直すと、牛舎に戻って再び作業を始めた。

 佐々木さん宅から西へ約三キロ、六ケ所村豊原でチューリップやハーブの栽培などに取り組む菊川慶子さん(53)。中学卒業後、東京へ出て就職、やがて結婚した彼女は十二年前の九〇年に、東京生まれの夫(67)や子ども三人と農業に憧(あこが)れて実家に戻った。

 「八六年のチェルノブイリ原発事故のころから生協活動などを通じて残留農薬や放射能汚染のことなどを学んできました。だからこちらに帰っても、だんだん核燃サイクルのことが気になりだして…」と振り返る。

 九〇年末から九年間情報紙を月刊で発行し、反対住民の思いや活動を記録。今も村民や原発に反対する全国の仲間に季刊で発信し続ける菊川さんは、昨年暮れから今春にかけて数人の仲間とともに村内約二千七百世帯を戸別訪問し、声を上げなくなった住民の原子燃料サイクル施設に対する率直な声を聞いて回った。

 「半数は留守をしていて聞けなかったけど、今でも優に五百世帯の人たちが、再処理工場だけは止めたいと思っているのが分かりました。核燃で働く人たちの中にも、そんな人たちが結構いたんですよ。経済的な理由から、国や事業者を信じて進むのがいいというのは、わずかに六十世帯ほど。後はあきらめも含めた無関心層の人たちです」

 反対住民の一番の思いは「命を脅かす放射能への不安」だという。

 「言い換えれば、命を大切にしたいということ。村の人たち、特に女性は二万四千年という長い半減期を持つ猛毒のプルトニウムなんかと、人間は共存できないことを本能的に感じているんです」と菊川さん。

 なのに低レベルから高レベルまで、すべての核のごみが次々と自分たちの村に搬入される現実…。

 「六ケ所村の核燃施設は、今では日本の原子力政策の要です。日米安保条約によって米軍基地が集中する沖縄の人たちと同じように、私たちは日本の原子力政策の矛盾、しわ寄せを全部押し付けられているのです」

 その要となる再処理工場の配管の長さは約千五百キロ。溶接などによる配管の継ぎ目は四十万カ所にも上る。来年六月には、その配管を通してウランテストが開始される予定である。いったん放射性物質を流すと、建物全体が巨大な放射性廃棄物となってしまう。

 「原発でも事故の多くは配管の継ぎ目などで起きています。それを考えれば、再処理工場での事故の可能性も高い」と菊川さんは力説する。

 彼女も加わる核燃料廃棄物搬入阻止実行委員会のメンバーは、来年に迫ったウランテストを何としても中止させる決意だ。

 「現実には国策の名で進められる事業を私たちの力だけで止めるのは困難かもしれません。でも、考えてみればこの問題は電気を使っている人たち、特に大量消費地である都会の人たちの重大な問題であるはず。電気を生み出したごみの行き着く先がどうなっているか、このままでいいのか、日本中の人に考えてもらいたいのです」

 「核燃の村」のイメージを変えたいと、九年前から「観光花園」を開き、毎年五月に「チューリップまつり」を開催する六ケ所農民の切実な願いである。(文と写真 編集委員・田城明)

(2002年6月23日朝刊掲載)

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